からっ風と、繭の郷の子守唄 第101話~105話
「夜景がおすすめということどすから、日が暮れてから入りましょ。
それまでの時間、すこしお話でもしましょうか。
静かな場所がいいですねぇ」
千尋が、共用の休憩スペースを覗き込む。
室内は意外なほど空いている。
大きなガラスに沿って置かれた椅子とテーブルに、人の姿は少ない。
空間ばかりがやたらと、目立つ。
その先に、もうひとつの部屋が見える。一段高くなった床に畳が敷かれいる。
長机が置かれた畳の部屋は、しんと静まり返っている。
「人の姿が少ないようどす。
昼間から夕方へ切り替わるタイミングのせいでしょう。
テーブルより、畳の部屋の方がええかしら・・・
人の目が気にならない場所へ、千尋が腰を下ろす。
部屋は細長い造りになっている。
回廊のような廊下に沿って、休憩用のスポットが連なっていく。
回廊の最奥に浴室と、2つの露天風呂が作られている。
榛名山の懐には、石段で知られる伊香保温泉の旅館街が有る。
日が傾いて行くと山の影が、渋川市の街並みの上に黒々と落ちてくる。
初冬のこの時期。傾きかけた夕日はあっというまに榛名の峰に消えていく。
山裾を黒く染め、利根川の岸辺まで伸びてきた榛名の長い山影が、
そのまま日暮れの闇へ変っていく。
日暮れとともに渋川の市街地に、点々と明かりが点いていく。
日暮れの闇が立ち込めてきた数分後、一面の見渡すかぎりの光の海が
窓の向こうに浮かび上がって来る。
「・・・すごいわねぇ。
あっというまに日暮れから夜にかわってしまいました。
西の山が榛名そやし、足元に見える半分以上が渋川の
夜景なのかしら・・・・」
頬杖をついたままの千尋が、鮮やかさを増してくる夜景に見とれている。
夜景を見つめていた千尋の視線が、ふと康平の横顔へやって来た。
何か話を切り出しそうな気配が有る。
「例の話題かな?」見返そうとした康平の目を避ける様に、千尋の視線がまた
渋川の夜景に戻っていく。
千尋が切り出そうとしている話題に、康平もおおよその検討はついている。
貞園の過呼吸症から、まもなく一ヶ月余りが経とうとしている。
その間。2人はなんどか顔を合わせている。
しかし。あれ以来、2人のあいだに、千尋の病気に関する話は出てこない。
意図的に避けている訳ではないが、やはり、話題にしにくいものが潜んでいる。
(避けて通れない話だ。今日が、その日になるかもしれないな・・・)
康平も街の灯を見下ろしながら、ゆっくりと話を聞くための腹をくくっていく。
「日も落ちてきました。
ちょうどいい時間になってきたようです。
露天風呂から町の灯を見下ろしながら、お風呂に入るのは格別です。
難しい話は後回しにしましょう。
まずは、ゆっくりと温泉を満喫してきてください。
俺は『カラスの行水』だけど、君はどうなの?長湯のほうですか?」
「はい。ウチはあきれるほどの長湯どす。
それも。お湯に首までしっかり浸かり、汗をかくまでひたすら我慢します。
変でしょう。みんなにも、よくそう言われているんどす」
「源泉かけ流しの天然温泉です。
ゆっくり気が済むまで入ってきてください。俺のことなんか
まったく気にしないで」
「悪いわ。待たせすぎてしまったら」
「ビールでも飲ませてもらいながら、適当に時間を潰しています。
酔っ払っいすぎてベロベロになっても、家まで送ってもらえるから安心です。
助かりました。あなたが車を準備してくれて」
「わかりました。
夜景などをじっくりと見つめながら、告白する覚悟を決めてまいります。
でも、ウチは根っからの意気地なしどすから、すこしばかり
余計に、時間がかかるかもしれません・・・・」
暗黙の納得が二人のあいだを流れていく。
覚悟を決めた千尋と、来るべき時がきたと腹をくくった康平が温泉へ
入るため、ほとんど同時に席を立つ。
作品名:からっ風と、繭の郷の子守唄 第101話~105話 作家名:落合順平