あの綿毛のように
夏祭り
目覚まし時計が朝を知らせる。ベッドからのそのそと、まるでかたつむりにでもなったように抜けだす。
特に変化のない日々は淡々と過ぎ、気付けば夏休みまであと三日を切っていた。
佐々木さんが初めて私の家に来た次の日、彼女は私の自転車に乗って学校へ来た。私の学校では自転車通学をするとき、学校からシールをもらって自転車に張らなくてはいけない。私はそれが面倒くさくて、歩いて学校に来ている。だから、もし自転車を学校に止めて、教師に見つかると面倒くさいことになってしまう。そのことを彼女は知っていたので、「自転車はいつか二人で行った大型スーパーの駐輪所に止めておいた」と鍵を受け取るときに説明された。
佐々木さんは、あの日以来ちょくちょくと私の家に遊びに来るようになった。
あるときは海とゲームをして、あるときは私と他愛のない話をして、またあるときは漫画を持って来たり、私の小説を読んだりした。
今月、私の家で一緒に過ごした時間は親の何倍も多いだろう。
朝ごはんの準備を済まして、海を起こしに行く。部屋をノックして扉を開けると、海もかたつむりよろしくベッドの中でもそもそと動いていた。
「起きる!」
布団をはぎ取って無理やり起こすと、海は呻きながら伸びをした。
朝ごはんを食べ終わり、登校の準備も完了した私たちは、同時に家を出た。坂道を下る私たちに、朝にも関わらず元気な日差しが襲う。下り道でこの暑さなのだから、帰りに上るときはきっと汗がひどいことになっているだろう。
「いってきます」
海が交差点で右に曲がる、私は左だ。海にいってらっしゃいと返し、私は一人高校へと足を向ける。
学校に付いたのは八時十五分。そのころには、まだあまり生徒は来ていない。大体の生徒は、遅刻五分前になってようやくぞろぞろと学校に来ることが多い。佐々木さんもその一人で、その集団に入らず、遅刻することも珍しくない。
今日の佐々木さんは、どうやら遅刻のパターンらしかった。
ショートホームルームが終わり、生徒たちが各々一時間目の準備をしたり、雑談をしているときに、彼女は涼しい顔で教室に入ってきた。ほかの女子たちが、彼女に向かって「またちこくー」とからかっている。それに向かって「今月はまだ三回」ところころ笑いながら彼女は、席に着いた。
一時間目、現代文の授業。私が一番得意としている授業だ。
思うに、数学だとか、物理だとか化学だとか、あの手の科目の教科書は絶対にわかりづらく書いているに違いない。
算数で例えるなら、「いちたすいちはに」と書けばいいものを「ある整数を一とし、またある整数を一とする。さらにそれらを足して出た和は二とする」なんて書いてあるようなものだ。その通りなのだけど、解らせようという気が感じられないのだ。少なくとも、私にはそう思える。
その点、現代文はいい。文を読んで、この時の主人公の気持ちを答えよ、なんて大体読んでいればすぐにわかる。きっと、私は根っからの文系なんだろう。大学の幅が広がるからと理系を選んだけれど、失敗だったと後悔する日はそう遠くない気がしている。
そんなことを考えているうちに、現代文の授業は終わりを告げた。あと五時間分の授業が残っている。そう考えると、放課後までがとても長い時間に思えた。
実は今日、花火大会があるのだ。前に、私の家の窓から花火を見ることができると佐々木さんに言っていたことを、彼女は覚えていたらしい。昨日、私の家に来てもいいかと聞かれたのだ。
「あの花火をさ、涼しい風に吹かれながら、遠い目をして眺めたいんだ」
画になるでしょう、と彼女はにやりとして言った。
「もの憂げな顔をして呟くんだ。『あの人は今どこに……』なんて」
「何の漫画?」
「失礼な! 自作だよ」
「それはそれでどうかと思うけど」
一緒にいた海が、そういって笑った。
そんな出来事があって、私たちは花火を一緒に見る約束をしたのだ。
楽しみが先に残っていると、それまでの時間が無性に長く感じてしまう。私はただでさえ退屈な授業を、必死にノートへ板書することでしのいでいた。
二時間目、数学、終了。
少しの休み時間、終了。
三時間目、物理、開始。
以前、物理の教師が「ドイツの生徒は授業では眠らないのに、お前らときたら」といっていたのをふと思い出した。それはすごいことなのだろうけど、それでも言い訳をさせてもらえるのなら、きっとドイツの授業は教科書をまるまるなぞっている訳ではないのだろうと思う。
こんなとりとめの無いことを考え始めてしまうということは、私の集中力が切れていることを意味する。
それでも、私は板書を続けた。
そうして、「もうだめだ」と意識が沈みかけるころになって、ようやく教師が「今日はここまで」と言い、物理の授業は終わりを告げた。
四時間目の授業も同じように流してようやくやってきた昼休みには、佐々木さんに付き添って購買に向かう。
「購買の人が変わっちゃってさー」
佐々木さんは廊下を歩きながらぶつぶつと呟いた。
「前のおばちゃんだったら、いくらか『めんどくさいから負けてやる』って端数分負けてくれたりしたんだけどなー」
商品前にある生徒の塊の奥を見てみると、そこにはゆったりと会計をしているおじさんがいた。
「あの人は負けてくれないの?」
「そうなの。おかげでほら、財布の中が」
ちゃりん、ちゃりん、と振りながらこちらに中身が見えるようにしてきた財布の中には、いくつもの小銭が群れを成していた。
「それこそ、端数が出たときに使えばいいのに」
「前に思いっきり計算を間違えて、恥ずかしい思いをしてからやってません」
「わからないでもないね……」
佐々木さんが購買でパンを買っている間、私は自動販売機でお茶を買っていた。
「お待たせ」
買ったばかりのお茶を飲んでいると、戦利品を抱えた佐々木さんが戻ってきたので教室に戻ることにする。
「今日、お祭り会場には行くの?」
佐々木さんにそう聞くと、彼女は口に含んだパンをもぐもぐしながらこちらを向いてきた。そのまま首をすくめて、『わかんない、どうする?』と身体で示す。
「どうせなら、たこ焼きとか欲しいとは思うけど」
そんな佐々木さんに私は言葉で返す。相変わらず、パンを飲み込めていない佐々木さんは大きく二度うなずいた。『それもそうだ』と言っているのだろう。
「それじゃ、行く?」
「行く」
パンを飲み込んだ彼女はようやくそれだけを言うと、次に紙パックのイチゴミルクを飲みだした。
「何で行く? 自転車でいい?」
「いいんじゃない? ちょっと時間かかるけどいけない距離じゃないし」
ストローに口をつけながら佐々木さんは「あ」と呟いた。
「海くんもつれてこうよ」
「今朝、海に何も話してないから遊びに行ってるかもしれないけど、いたら誘ってみる」
「じゃあ、決まりね。放課後着替えて自転車に乗って、学校前に集合ということで」
佐々木さんはそういって、もうひとつのパンに取り掛かった。