あの綿毛のように
二
学校の玄関で靴を履きかえる。私の下駄箱は一番下なので少々面倒くさい。一度や二度ならまだいいのだが、腰を曲げて取るこの作業を一年中繰り返すのだからたまったものではない。その点、佐々木さんの下駄箱は高さがちょうどいいところにあるので羨ましい。
学校の玄関前は、これから帰る生徒と、部活がある生徒でごった返していた。私たちはその中を縫うように歩き、ようやく校門に着いた。
「こっち側、あまりこないから新鮮」
校門の前の「丁」の字になっている道を左に曲がった時に佐々木さんは言った。私の家が向かって左側なのだが、佐々木さんの家は向かって右側らしい。
私がこの学校を選んだ理由は「近くで学力がちょうどいいから」だった。面接でもそう答えた。その時の面接官の「あんたもか」というような顔が昨日のように思い出せる。それだけ同じ理由で受験する人が多かったのだろう。例に漏れず、学校を選んだ理由は佐々木さんも同じらしかった。彼女は学校が終わった後はすぐに家に帰っていたとのことで、私の家の方面にはあまり来たことがないようだった。
もっとも、これは全部あとで聞いた話なのだが。
「あ、ちょっと、お店よっていい?」
佐々木さんが途中にある大型スーパーを指さして言った。それで、今日は私が晩御飯を用意しなければいけないことを思い出した。
「私も買うものがあったんだ。一緒に買っちゃっていいかな?」
「うん、いいよ」
そうして、二人で押しボタン式の信号を渡り、駐車場を横切って大型スーパーの店内に入った。店内は冷房が効いていて涼しく、気を抜けば風邪でも引いてしまうのではないかという程だった。
二人で口々に「少し寒いね」と言い合いながら、食料品コーナーを目指す。途中のフードコートでは、私と同じ高校の生徒が何十人もいて、各々に放課後を楽しんでいた。
「散々学校で言われているのに、懲りないねぇ」
私が言った。学校では何度も「用もないのに店で騒ぐな」と注意を受けているのだ。学校からだけ注意されるのならまだいいのだが、大型スーパー側からもクレームが来ているらしく、先生たちにとっては悩みの種だろう。
「そうは言っても、短い青春とやらを楽しんでるんでしょ」
佐々木さんがそういった時の横顔が、妙に年寄くさく見えてしまって私は思わず笑ってしまった。
「なに?」
「おばさんくさいよ」
私が笑いをこらえながら必死にそれだけ言うと、彼女は「なにー?」と目を吊り上げて私の方を見た。そして、声を少しがらがらにして、
「まだまだ、若いもんには負けられませんよ」
と言った後、私と一緒に笑い転げた。周りの人たちは、そんな私たちにも目をくれずに忙しそうに歩き回っている。笑い疲れた私たちは、それでもなお食料品コーナーに向かって歩き続けていた。
「きっと、こういうのって今だけなんだろうね」
歩いていると突然、佐々木さんはさみしそうな顔をしてそういった。
私は、彼女の突然の変化と、そのさみしそうな顔で何も言うことができず、あいまいに頷いた。
佐々木さんは続ける。
「悔しいのよ、私は」
「悔しい?」
「そう。なにがなんだかわからないけれど、私は悔しい。その悔しさがどこからきていて、どこにやればいいのかもわからない。それも余計に悔しい」
私は佐々木さんの横顔を見つめた。
すねた子供のように少しとがった唇。俯き加減の目。綺麗な頬。その顔をゆがませて悔しいという佐々木さん。その顔を見ると、なんとなく、本当になんとなく、佐々木さんの悔しさがわかる気がする。
私たちは、大なり小なり、悩みを持っている。
普段からクラスで明るい佐々木さんにも、悩みはある。それが当たり前だ。そのことを私は不意に実感した。
「ごめんね、急に」
買い物かごをカートに入れながら、佐々木さんは笑って言う。
「あ、私が運ぶよ」
ごめんねの返事の代わりにそういうと、彼女は「カートを押すの好きなの」と言ってころころと笑った。
二人でまずは野菜コーナーへ向かう。そこには野菜の緑っぽい匂いが漂っていた。
「キャベツ高い!」
佐々木さんが目を丸くして驚いていた。毎年のように聞く「野菜高騰」のニュースだが、それは今年も例外ではなく、キャベツは一玉、二九八円とかなりいい値段だ。正直、一玉百円の時期を知っている私としては、怖くて手が出せない。
「そういえば、佐々木さんの用事って?」
「あ、そうだった」
忘れていた、と言った彼女は次に、ちょっと行ってくる、と言ってどこかへ向かって行った。
戻ってくるまでの間、私は野菜コーナーを再び物色し始めることにした。
トマトとキャベツ、この二つが野菜の中でも特に好きなのだが、そのどちらもかなり値段が高騰していた。晩御飯をどうしようかと悩んだ末、タマネギとジャガイモをカゴの中にいれる。
「おまたせー」
佐々木さんが戻ってきた。その右手にはレジ袋が握られていた。かさかさと音を立てるビニール袋の中から、甘い香りがする。
「なに買ったの?」
そういうと、彼女はふふん、と笑って袋から箱を取り出して開けて見せた。
「ケーキ!」
「手ぶらも悪いから、食べようかなと思ってさ」
「うわぁ、紅茶入れるね!」
「まだ早いよ」
彼女はまた笑いながら私にそういった。
甘いものは、人をころりと転がすような魔力がある。怒り心頭な人に、「まぁまぁ」と甘いケーキだったり、たい焼きだったりをあげれば、きっとそれだけで世界は平和になると思ってしまう。
「ところで、なに作るの?」
スパイスなどが置いてあるコーナーに歩いたところで、佐々木さんは聞いてきた。
「カレーかシチュー?」
「おしい!」
そういいながら、香草を手に取った。
「ビーフシチュー?」
私は頷いた。ビーフシチューと言っても、そこまで大掛かりではない。デミグラスソースは家に置いてある缶詰だし、圧力鍋もあるから時間もかからない。私がすることと言ったら、野菜や肉を切って、香草と一緒にいれる、親が残してある赤ワインをちょっと入れるくらいのものだ。
「よかったら、食べて行かない?」
「大丈夫なの?」
「うん、今日は、弟と私だけだから」
「じゃ、食べる。楽しみにしてるよ、吉岡シェフ」
「食べられるものを作れるよう、努力します」
そう言いながら、私はブロックのお肉をカゴにいれた。
「普段から、料理するの?」
佐々木さんは私の隣で鶏肉のパックを手に取りながら言った。
「うーん、まぁまぁね」
「いつお嫁に行っても大丈夫だね」
そう笑った後、鶏肉を戻した彼女は「意外と高いんだね」とぽつりと言った。そして、次は牛肉を手に取り、また値段を確かめはじめた。
そんな調子で一回りしたので、意外と時間を食ってしまった。それでもまだ夏の陽気は私たちに降り注いでいて、私たちの健康な肌をじりじりと少しずつ焦がしている。
近くの公園では子供たちが汗も気にせずはしゃいでいた。水風船をお互いに投げ合って、びしょ濡れになっている。私にも、あんな時代があったのだ、と少し微笑ましい気持ちになる。