通り過ぎた人々 探偵奇談5
虚無へ通く道
戻ってきて。瑞。行っちゃだめだよ。
誰かが呼んでいる。ゆっくり目を開けると、霧に包まれた白い世界に立っていた。ここはどこだろう。霧が深くて何も見えない。瑞は声のする方を探す。
戻ってきて。お願いだから。この上へ行ってはだめだ。
子ども…?泣きそうな声が、下のほうから響いてくる。瑞は、石段の上に立っているようだった。硬い石の感触、苔むした緑が見える。厚い霧に覆われ、階段の上も下も見えない。どこまで続いているのかも、どこから来たのかもわからない。声は、階段の下から再び呼ぶ。
戻ってきて。このまま行ってしまったら、もう二度と会えないんだよ。
泣いている…。行ってやらなくちゃと、瑞は思う。泣いているじゃないか。かわいそうに。しかし。
「戻るな」
聞き覚えのある声がすぐそばで聞こえる。階段のひとつ上に、伊吹が立っている。瑞の手首を強く掴んで、戻るなと繰り返す。険しい顔をしていた。
「…先輩?なに…」
「戻るな」
戻ってきて。お願い、行かないで。離れたくない。忘れたくない。
子どもの声は一層悲壮に瑞を呼ぶ。それに呼応して、瑞の手首を掴む伊吹の力が強くなっていく。
「伊吹先輩、」
「戻るな」
「でも、呼んでる。泣いてるみたいだ…」
「おまえは俺と、この上に行くんだ」
手首をやや強引に引かれ、瑞は石段を上る。伊吹は前を向いたまま振り返らないが、その強引さから必死な様子が見て取れた。どうしてそんなに焦っているのだろう…。瑞にはわからない。
「先輩、下で子どもが泣いてるんだ」
「おまえは俺と、この上に行くんだ。約束しただろ?」
この上?約束?
「おまえが望んだんだろ?」
振り返らないまま、伊吹が静かに言った。冷たい霧が身体を包み、瑞は震える。
俺が?何を望んだって?
作品名:通り過ぎた人々 探偵奇談5 作家名:ひなた眞白