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甘え

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Side.S
 -虫の知らせ、特によくないものに関するものは当たるのだと、心底思った。

「…園田か」
 そう唇だけで呟くと、藍沢は幸せそうな、でも少し悲しそうな笑みを浮かべて、半開きのドアに寄りかかりながらズルズルと崩れ落ちていった。急いで抱き寄せるように腰に手を回して支えると、服の上からでも体温が明らかに高いのが分かった。この様子だと、ドアを開けるのも一苦労だったかもしれない。
「……こうなる前に、一声かけろ。馬鹿野郎」
 悪態をついてもどうしようもないので、肩を貸してやって立たせる。眠っているのか気絶しているのかは分からないが、意識が無い藍沢の体は力なく腕一本で俺にぶら下がっている。どうにか万年布団のある奥の部屋に入ったところで、その惨状に思わず深い溜息が零れてしまった。どうしてこいつは、他人の事には気が利いても自分の事には手抜きというか適当なんだ?…と文句を言いたくても、当の本人は俺の首筋に熱い息を吹き付けるだけ。このままではこちらの心臓にとって有害でしかないので、まずは寝かせる。本当は汗で湿気ている寝間着を着替えさせてやりたいが、まずは部屋の片付けだ、と自分に言い聞かせる。
 時々あいつの様子を見ながら、家の中を片付けて掃除して、ついでに大急ぎで近所の薬局で必要な物を色々買い足して戻ってくるまでに、約三十分。我ながら、よくここまで特急でできたもんだ。冷蔵庫に冷やす物を放り込んで、辛うじて製氷機に残っていた氷で簡易の氷枕を作って枕元に持って行くと、藍沢は目を覚ましてぼんやりと天井を見ていた。
「あ、起きた」
「そ…のだ?何で、ここにいるんだ?」
「お前が鍵開けて入れてくれたんだけどな?とにかく、お前は大人しく寝ていろ。ほら、氷枕作ってやったから」
 大きめに作ったので、首元までカバーできる筈だ。ついでに、汗で張り付いた前髪をかき上げて、濡らしタオルを額に乗せてやる。気持ちよかったのか、猫みたいに目を細めて微笑み返された。
「ありがと。…うれしい」
「…ったく。病人は黙って寝ていろ」
 妙に恥ずかしくて背を向けて立ち去ろうとしたら、軽い力で、それも弱々しくだったけど服の裾が引っ張られた。何事かと思って振り返れば、藍沢の奴、迷子になって心細くなった挙句泣きそうになっている小さな子供みたいな表情を浮かべていた。
「……いかないで」
 無意識での行動は、そいつが心の中で考えている本心だという話を聞いた事がある。こいつの場合も、そうなんだろう。よっぽど一人は心細かったのか。…やれやれ、要望に応じてやるか。
「…傍にいてやるよ。お前の気が済むまで」
 苦笑混じりにこう言うと、今度こそ嬉しそうに笑って目を閉じた。静かな寝息が聞こえてきたのは、すぐの事だった。
「…なんだかなぁ」
 後には、何とも言えない表情の俺が一人取り残された。

 そもそも、最初に藍沢の様子がおかしいと思ったのは、テスト期間前に二人で近所にある北野天満宮へ行った時だった。平日の昼間と比較的空いている境内を、学校に近い裏口の方から入ってうろうろしていた。特に催しの行われている時期でもなかったが、屋台は出ていたので昼食代わりに買い食い。その時、いつもなら俺よりも目敏く何かを見つけては「食べよう」と言ってくる藍沢が、俺が何を勧めてもいまいちな反応しか示さなかった。
「どうした、具合でも悪いのか?」
「…そうやない。別にどこも具合悪ない。ただ今は食べとうないだけや」
「ならいいけど。でも一人で飯食うのも寂しいんだが?」
「そない言うなら、園田の食ってるタコ焼き、一つ頂戴」
「…ほら」
 爪楊枝をタコ焼きに一本刺して、皿ごと差し出した。でも、藍沢はなぜか口にしようとしない。怪訝な表情を浮かべれば、食わせてよ、と言って笑った。藍沢との付き合いは長くない。大学に入ってからの知り合いだ。でも今日ほど訳の分からないこいつは見た事がない。とにかく参道にいたままでは人目につくので、場所を移動した。その時になって、こいつはもしかしたら誰かに甘えたい心境なんだろうか? と思った。歩いている間も、これまたいつもならしてこないのに、俺の服の裾を小さく摘まむようにして掴んだまま離さない。体が接触しないギリギリの距離を保ったまま、それでも影は重なるだけの近さで寄ってくる。
「…本当にどうしたんだ?」
「…だから、何もないって言っとるやろ」
 そういう横顔はどこかやつれていて。目の下にクマができている訳ではないが、全体的に影ができていた。テスト前だという事を考えると、多分レポートとかで行き詰ったんだろう。その時はそんな風にしか考えていなかった。
 結局、その日は藍沢の我が儘に散々付き合わされて終わった。

 そこから何日か、藍沢と直接顔を合わせる事はなかった。元々あいつとは所属学部が違うので、授業でも顔を合わせる機会は皆無に等しい。でも通っているキャンパスは同じなので、その姿を見かける事はあった。いつもみたいにボーっと歩いているあいつだが、その足取りは少しおぼつかなくて不安定。顔色も日に日に悪くなっていく一方だった。多分、というかどう考えても、具合が悪そうだった。だが会いに行くのも、いきなり突撃かけていいものか。LINEもあるのだから、そっちで連絡を取ればいいだけの話だ。…と考えても、実際にはしなかったんだが。そして、いつの間にかその姿を見かける事も無くなった。その時になって、様子を見に行ってやろうか、とようやく重い腰を上げた。俺もあいつも一人暮らしだから、具合が悪い時に人手が不足するのはよく分かっていた。
 それで藍沢の住む安下宿の部屋まで来てみれば、これだもんな。…嫌になっちまう。

作品名:甘え 作家名:黒猫