【創作】「幸運の女神」
日の光が、夜の帳を退ける。夜明けを待ち望んでいた兵達は、我先にと城壁によじ登った。
周辺を包囲していた敵影は一切見あたらず、無人と化した土地を悠然と歩いてくるのは、
彼らの主君。アンバス公爵、バートラム・チェンバレンその人であった。
「全く、少しは静かにできんのか」
バートラムは書斎に閉じこもり、椅子の背にもたれてぶつくさと悪態をつく。カーテンの影から外の様子を見ていたヴァリは、ふふっと笑いながら「無理な相談ですよ」と言った。
「英雄伝説の再現を目の当たりにしたのです。彼らの興奮を納めるなど、神の力を持ってしても無理でしょう」
「神ではなく、悪魔だがな」
扉と窓を閉め切っても、外の興奮が伝わってくる。日の出と共に戻ったバートラムは熱狂的に迎えられ、興奮した民衆は、口々に彼らの領主を誉め讃えた。
それは、御伽話が現実となった瞬間。
彼らの領主バートラム・チェンバレンは、英雄アレス・ロズウェルの生まれ変わりであり、この地に永劫の平和と繁栄をもたらすと、誰もが堅く信じた。
外の喧噪にうんざりした顔のバートラムは、立ち上がってヴァリと向かい合う。
「私の許可なく城を立ち去るなと言ったはずだ」
「申し訳ございません」
バートラムは苛々と舌打ちし、「そうではない」と荒い口調で言った。怒った熊のように部屋の中を歩き回り、机の上からペンやインク壷を払い落とすと、かがんで床の物を拾い集めているヴァリの前に立ちふさがった。
「その・・・・・・君が戻ってきてくれて、嬉しい。あの時は・・・・・・悪かった。君の言うとおり、断るべきだった。領主として相応しい振る舞いではなかった。それで・・・・・・だから・・・・・・」
言いよどむバートラムに、ヴァリは立ち上がって微笑む。
「僕も、また会えて嬉しいです、バート」
その言葉に、バートラムは息を呑んで、ぎこちなく顔を背けた。
「まだ、私を、友と呼んでくれるか?」
「あなたが望むなら」
もごもごと不明瞭なつぶやきを漏らすバートラムの耳に、ひときわ大きな歓声が届く。兵隊長あたりが姿を見せたのだろうか。バートラムは、ふっと息を吐いて、
「神の加護を受けた英雄の生まれ変わりが、悪魔と契約するとはな」
そう言ってにやりと笑う。
ヴァリは穏やかな口調で、
「神は、そのような些事に手を貸しません」
と言った。
そうかもしれないな、とバートラムは呟く。実際、自分に手を差し伸べてくれたのは、見も知らぬ神ではなく、目の前の悪魔なのだから。
「今なら、分かるぞ。アレスが可愛がっていたという少女の気持ちが。相手が神だろうが悪魔だろうが、願いを叶えてくれるのなら、命など惜しくはないな。そう、その子も、幸せな最後を迎えたのだろう」
何も言わず佇むヴァリに、バートラムは手を差し出す。
「さあ、いつでもいいぞ。むしろ早くしてくれ。外がうるさくてかなわんからな」
「ええ、そのことですが」
ヴァリは契約書を取り出すと、いきなり縦に引き裂いた。
バートラムがあっけに取られている間に、細かく千切られた紙片は、宙に放られ、一瞬で燃え尽きる。
「実は不備がありましたので、この契約は無効となります」
「はあ? は、あっ、え?」
「所詮、卑しい悪魔のすること。詰めが甘いとお笑いください」
ヴァリは苦笑いを浮かべ、慇懃に腰を折った。
「ご機嫌よう、我が君。二度とお目を汚すこともないでしょう」
そう言って、煙のように消え失せる。
バートラムが我に返った時には、悪魔がいた痕跡は何一つ残っていなかった。
作品名:【創作】「幸運の女神」 作家名:シャオ