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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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切れない鋏(番外編)9.紗弥の章 ハロー、ブルーバード

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「俺のこと、おぼえてない?」

 はにかむように笑って、そう言った。するとそばにいた男子学生が「いきなりナンパかよー」と冷やかしたが、武は「違うって。古い知り合い」と落ち着いた様子で言った。

「武くん……だよね」

 何とか声をふりしぼってそう言うと、満面の笑みを浮かべた武が握手を求めてきた。

「やっぱり。一目でわかった。あ、もしかして、今から野外ステージに行くとこ?」

 武は紗弥の手元にある新入生歓迎ライブのチラシを指さすと、もう片方の手に持っていた何かのハードケースを掲げた。

「俺、今から飛び入りで参加させてもらうんだ。聞きに来てよ」

 そう言って武は強引に紗弥の腕を引いた。幼い頃とは比べ物にならないくらい、がっちりとした手のひらが紗弥の手を握っていた。桜の坂道をかけ登っていく十八歳の武は、まともに目を開けていられないくらい眩しく輝いていた。

 同じクラブに所属することになった彼は、いつの間にか「紗弥」と呼ぶようになった。会話をするうちに昔の調子が戻ってきて、紗弥も「武」と呼ぶようになったが、一回生の異性間で呼び合う名前は、かなり浮いていたのだと後になって気付いた。

 気付いた時既に遅し――とはまさにこのことで、二人は付き合っていると、上級生まで信じていた。遊びたい盛りの武はあちこちで否定して回っていたが、紗弥はどうでもよかった。ライブのあと女性を連れて姿を消した武が、翌日、同じ服装で練習にやってきても、ぎくしゃくしたりしなかった。二人は旧知の間柄で、同じ秘密を共有している――そのことが紗弥に安心をもたらしていた。

 はっきり言って武はモテた。はた目に見て反吐が出そうなくらい、そっけない態度と紳士的な対応を使い分けていた。くっきりとした目鼻立ちも手伝って、いつも違う女性を連れていた。

 おそろしくたまに、紗弥に好意をよせてくる勘違い男子もいたが、全く興味が持てなかった。

 部員に囲まれて屈託なく笑う武を見ながら、好きになるのは絶対にやめておこうと心に誓った。そこにきっと幸せな未来はないと――紗弥の防衛本能が告げていた。

 折り紙を手にしたまま、コルクボードを見上げる。もう一枚の写真には、小雪と愛美、それから有川家の次男、慎一郎が映っている。

 小雪と愛美が同じ女子高で知り合い、仲良くなった慎一郎が家に遊びに来たとき、紗弥は目を疑った。玄関の三和土で、まるで兄妹のようによく似た小雪と慎一郎が笑っていた。愛美に指摘しても「そう?」というそっけない返事だった。若い彼らには、少し風貌が似ているくらいどうでもいいことのようだった。

 武から慎一郎が養子だと聞かされた時、真っ先に考えたのは小雪の兄ではないかということだった。仲良くしている彼らを見ながら一抹の不安を抱えているのは、自分だけではなく武も同じようだった。

 それから武と紗弥のあいだに「弟妹の幸せを見守る」というミッションが増えた。親にかくれて戸籍謄本を確認し合ったこともあるが、小雪と慎一郎のつながりは見つけ出せなかった。ただ二人の未来が明るいものであればと、祈るばかりだった。

 その頃から武は女遊びを控えるようになった。プロプレイヤーへの明確な道筋を見出した彼の、当然の行動だと思っていた。

 紗弥が大学四回生のとき、綿谷が『ブラックバード』を開店した矢先に慎一郎は交通事故で死んだ。燦然と輝いていた武たちの未来は、跡形もなく消え去ってしまった。

 武の、小雪への態度が変わったのも、この頃だった。まるで半身を失くしたかのように憔悴する小雪の手を取り、そっと導くようにオリエンテのウッドベースを譲り渡したのも、武の算段によるものだった。

 小雪が彼に惹かれているのは一目瞭然だった。二人はときどき出かけているようだったし、小雪が帰らない夜は武のもとにいるのかもしれないと考えていた。
 武を好きにならなくてよかったと、このときほど思ったことはなかった。

 身勝手な武が突然結婚すると言いだしたとき、小雪がどういう態度に出るか不安だった。気持ちを押し殺すことに慣れた妹が武に真っ向から抗議するとは思えず、かといって自分に出る幕はないように思えた。

 同じ出自を持つ紗弥には、親の跡を継ごうとする武の気持ちが痛いほどわかった。紗弥が薬剤師の道を選んだのも、同じ仕事をする両親の笑顔が見たいと、その一心だった。

 人生の決定権は自分にはない、けれど愛してくれた家族のために生きたいと願う彼の気持ちは、言わずともわかることだった。
 目論見からはずれたのは、慎一郎の事故死と、そこにかける親たちの願いだった。

 武の結婚の破談には、彼の父、有川晴樹の力も動いていたのではと、紗弥は考えている。武自身はかたくなに「フラれた」と言うのでそのことを追及するつもりはなかったが、彼らの結婚は背中にお互いの会社を背負ったものだった。破談になれば、分の悪かった有川商事の経営もただではすまない。

 けれど話を聞いていると、業務提携の話はその後、滞りなく進んだらしい。社長である有川晴樹が融通したのだろうと、当然、誰もが考える。それとなく武の母に話をふってみたこともあるが、「親は子どもの幸せを願うものよ」と花のような笑顔で言うばかりだった。

 人生の決定権はこの手の中にある――それは武だけではなく、自分もそうなのかもしれない。ようやくそう思えるようになった紗弥は、綿谷のプロポーズを受けた。

 それなのにいつまでたっても、この折り紙を手放せないでいる。
 紙を握ったまま、薄暗い部屋の中でぼんやりしていると、扉のむこうから声がかかった。

「紗弥ちゃん、お風呂どうぞ」

 小雪だった。条件反射のように返事をしたとき、紗弥は我に返った。
 彼女の幸せを祈るなら、この手紙はあってはいけないものだ。ましてや自分の未来にも、この想いはきっと足かせになる――

 すっと立ち上がると、手の中にある折り紙を破り始めた。誰が見ても判別できないように、小さくちぎっていく。それからもう武の顔を思い出さないようにして、他のゴミの中に混ぜた。

 施設にいた頃の彼との思い出は、今までの紗弥をずっと支えてきた。必死に現実にしがみついて生きていればまた会える日が来るかもしれない――淡い幻想にすぎなくても、それは生きるエネルギーになった。

 それも今夜でおしまいだ。遠い昔の手紙に支えられるのではなく、これからは今の自分を必要としてくれる綿谷を支えて生きていく――

 紗弥は手をはたくと、リビングに下りた。髪の濡れた小雪が、何やら携帯電話を操作している。紗弥の逃亡を阻止するミッションは未だ続いているらしい。

「別に逃げやしないわよ」

 紗弥がそう言うと、小雪は顔を上げた。この家で出会った時と同じ、紗弥を信頼している瞳がそこにあった。「あんたも早く寝なさいね」と言い残して、紗弥は風呂場に向かった。

 明日の式のために、渾身の力をこめて全身を磨いてやろうと思うと、憂鬱だった気持ちも少し晴れる気がした。