ボンゴ
「子供を連れて、その街に行ってみたいものです。生きるのに必要なら、銃だって手に入れるし」
それから、彼女は唐突なことを言った。
「キリストという人が二千年前にあんな処刑のされ方をしたってこと、本当でしょうか。本当にあんなことがおきたんでしょうか?」
その声は震えてはいなかったし、助けも求めなかったし、誰かを責めてもいなかった。
俺は黙った。神のことについては何も知らなくて、彼女もまたそうのようだった。
傷み切った作業服の袖で、彼女の鼻の下に流れる血を拭った。一瞬、弾けるように動いた。だが、嫌がらなかった。ただ鎖骨の下の胸のふくらみを、早く上下させた。呼吸の途中でこう言った。生贄を求めるのは悪魔のすることだって。人間はこれまでずっと、どの神もどの神も。サンドイッチの中身が土の上にこぼれ落ちた。マスタードとマヨネーズがとろりとろり。ほんとうに、綺麗な女だった。並外れて綺麗だった。じぶんが綺麗なことを知らないのだった。雪豹と同じだった。俺はその場から逃げたくなった。この女に関わりたくは無い。何か囁いた。用心棒たちが来たことは、誰にも言わないで。警察にも。儚げな素振りをしながら、三日かけて塗った屋根の色を、気に入らないと言ってみせる。
二月の風がやがて芽吹く生命の匂いを孕んでいた。麻雪の携帯電話が鳴った。何度か頷いた後、
「高さが七メートルのもの。全部で七本。帆船用」
と言った。
「繋留柱は宇土マリーナの港に運んでください。いいえ、金額はおなじです。脅されても変わりません」
と電話を切った後、
「食べてください。食べてください」
二度言って、幼稚園に子供を迎えに行くから、と急に早足で車に向かった。黒い煙を出すクソ古い1964シボレーインパラに乗って、細い並木道へ消えていった。