ボンゴ
牛肉はおそらく最高級のもので、光沢のあるリボンがついていた。椅子はひっくり返され、割れた皿が床に散らばり、「指示書69」と壁にスプレー塗料で殴り書きされていた。
雑草の生い茂る地面に降り、麻雪を振り返ると、何も起こっていない顔をしていた。何も塗っていない指でレモンを絞った。次にパンの上にレタスとラディッシュの輪切りをのせた。俺はこの女が苦手だった。野生の美貌を持っていて、弱くて儚げな気配。掴みようがなかった。近づこうとすると逃げるし、危機にあっても助けも求めない。俺に役立たずの烙印を押している。こういう女は世界の全てを諦め、世界の全てを卑しめている。憎むことすらせずに。
珈琲からは湯気が立っていた。コートは破れていて、鼻血がくちびるを濡らしていた。用心棒たちは音も立てずに、部屋を滅茶苦茶にしたのだった。
俺が庭に置かれた椅子に座ると、屋根をゆびさして、「あの色じゃないほうがいいと思います」
と静かに言った。
「じゃあ、塗り直したほうがいいですか? あれはアカプルコって名の色ですが」
「どこかの天国でしょうか」
「多分、どこかの都市です」
「その町は海に囲まれているんでしょうか」
「さあ俺は中卒なので、何も知らないんです。知っていますか?」
「たぶん、野良犬が沢山いて、みなパナマ帽をかぶっていて、ほしいものがあれば人を殺して手に入れる自由の場所なんでしょう?」
俺はニッパーをテーブルの上に置き、ペンキのついた腕で顔をぬぐい、ポケットからスマートフォンを取り出し、アカプルコについて調べた。
そんなにひどいところではないようだと伝えた。
「都市の海の色が、あの色にそっくりだ」
「きっと、そこは実在しません」
麻雪は俺にサンドイッチを手渡した。玄関ポーチを照らす壊れた屋外灯が、ジリジリ瞬いている。硬銅線がむき出しになっている。でも写真があるだろう、と俺は呟いた。アカプルコは実在する街なんだ。