さあ、一緒に踊りましょう
ジャガイモ君の家は郊外にあった。そこで母親と二人暮らしていた。彼は音楽家をやりながら農業もやっている。サトミには想像のつかない世界だったが、興味を感じていた。
呼び鈴を押すと、ジャイモ君が出てきた。
「今日は込み入った話があって、来ました」と告げると、彼は居間に招き入れた。
居間は実にシンプルで何もなかった。広いだけであった。庭に面した障子戸は開けてあって、春の風が縦横に忍び込んだ。
「すぐそこに山が迫っているのね」
お茶を出すジャガイモ君に向かって言った。
彼は顔をあげて、サトミを見た。サトミも彼を見た。ジャガイモ君は以前会ったときよりも、ずっといい男のように思えた。なぜが十四歳のとき出会った船乗りに似ているとも思った。彼の汗の匂いを感じたせいかもしれない。その匂いに、ふと我を忘れるほど、サトミの心を捉えた。性的な感覚をくすぐるような匂い……。
サトミはあわてて平静を装うとした。いつもよりクールに。そして淡々と。まるで機械のように。
「たいした用がじゃないけど、レイのことで来たの」
「レイから……? とっくの昔に終わった」と彼は微笑んだ。
「私もそう言ったの。でも、彼女は忘れられないのよ。あなたとのことが。謝罪の意思を伝えてほしいとも言った」
「何をいまさら、覆水盆に返らず。僕の中では、全て過去形のことだ。今更、どうでもいいこと。そう伝えてください」
「分かったわ。ところで、また来ていいかしら?」
言った後で、「しまった」と思った。それに、「変に思われたらどうしょう」とも思った。
だが、彼は「いいよ」と答えた。
「あそこにあるのは桜の木でしょ?」
さほど手入れされていない庭の中央に古木がある。その幹は太く堂々としている。
「そうだよ。桜の木だ」
「もう、そろそろ咲くのね。どんな花が咲くの?」
「白くて仄かに甘く香る」
その言葉、その表現に、サトミは意表を突かれた。まるで詩人のような表現だと思った。
突然、雷が鳴ったかと思うと、激しい雨。あまりの突然の出来事に、サトミは驚き、よろけた。その拍子に体のバランスを崩してしまった。それをジャガイモ君が支えた。ちょうど、抱き抱えられるように。サトミはジャガイモ君の胸の中に納まってしまった。
優しく強い力を感じた。サトミの大きな胸を彼の腕が触れた。サトミの全身に心地よい感触が走った。サトミははっと気づいた。そうだ、遠い少女の頃、夢見た筋肉質の体を持つ男は彼だと。同時に女としての部分がうずいた。彼の腕に自分の手を重ねた。
「また、会いたい」と呟いた。
彼は何も言わなかった。
すぐにジャガイモ君の腕の中から離れた。
サトミは部屋に戻ると、すぐにベッドに横たわった。
夢を見た。 久々に踊り子になった夢だ。 そうだ、サトミはずっとバレエを習っていた。バレリーナになりたいと母親に言ったら、「そんな品のない仕事はだめ」という母親に反対され夢を捨てた。十五の時だった。その際、バレエの稽古もやめさせられた。だが、バレリーナになる夢は数えきれないほど見た。強い男に抱かれて踊り、最後はその男の胸で抱かれて眠る。そのときも同じ夢である。
しばらくして、夢の中で目を覚ます。目の前に、踊り子のサトミがいる。『何をしているの、さあ、彼と一緒に踊りましょう』と。
びっくりして、起き上がり、あたりを見回すと誰もいない。夢を見ていたのである。
窓を開けた。
風が心地よく吹き寄せた。
サトミはレイに電話した。
「ジャガイモ君に会って、あなたの気持ちは伝えた」
「ありがとう」
「でも、『もう終わったことだ』と彼は言っていた」
「そうなると思っていた」
「で、ジャガイモ君が『デートして』と言うの? 断った方がいい」
「彼が望むなら、そうしてあげて。彼はずっと独りだったから……サトミが良いと思うなら、私はちっともかまわない」とレイは笑う。
電話はそこで終わった。
「ジャガイモ君と踊るにも悪くない」と思いながら、暮れゆく春の空を眺めた。
作品名:さあ、一緒に踊りましょう 作家名:楡井英夫