睡蓮の書 三、月の章
分からない戸惑いの気持ちも、拒まれたときに湧き上がった怒りも、まるでついさっき経験したことのように感じられた、夢。
――夢……?
(違う……これは……)
そう、これは、「以前」の自分自身。
夢の中の少女は、自分の称号「アンプ」をその名にもつ、同じ力を最初に持って生まれたという、千年前の月の姫。
これは夢ではなく、過去、アンプが経験した出来事。
“記憶”……そう、力とともに奪われていた、自身の“記憶”に違いない。
――では、この記憶は、いったいどこからどのようにして、戻されたのか……?
ぐらり、と視界が揺れる。
長らく封印されていた自身の記憶。それがどこにあるのか、キレスは知っていた。それを求めて、ほんの数刻前、北へと向かったのだ。北のその地下に、あの、紺青の光の灯る闇の空間に、それはあったはずだ。
キポルオを見た、あの空間に。
(まさか……まさか、まさか――!)
全身を巡る血が凍りついたような感覚。キレスは震える手で口元を覆う。
記憶が、戻った。
そうだ。求めていた通りに、奪われていた記憶を取り戻すことが出来た。――いや、取り戻してくれたのだ。キポルオが、その命に代えて。
キポルオは、自分のこ記憶のために、死んだのだ。
失ったものを取り戻すこと。……望んでいたはずだった。何より、望んでいたはずだった。そうだ、望みはかなえられた。記憶は戻ったのだ。
そしてその代わりに、キポルオは死んだ。ずっとひとりだった自分の、心の支えであった、誰よりも大切な存在が、自分のせいで――
“お前さえ、いなければ”――!
どう、と、何かがあふれ出した。
再び「夢」が引き寄せられ、現実に入り込む。再現される過去。入れ替わり立ち替わり、向けられる大勢の目、目、目――そのどれもが、同じいろをして、自分自身を冷たく貫く。何度も、何度も、繰り返し。
「まるで心がない。何をしでかすか分からない」
「得体が知れない、気味が悪い」
「呪われたもの、死を招くもの」
戸惑うばかりで、わけも分からず通り過ぎていた、その瞬間瞬間の「周囲の意思」が――過去の自分は分からなかったそれらが、いま、同じ色をしてよみがえる。過去には分からなかった、しかし今の自分には分かる、それらの目の示すもの、その意味が、目に見えない闇色の塊になって圧し掛かる。
「自分」に向けられる目のいろ。そのどれもが、自分自身への無言の「排除」。存在の軽蔑、そして、否認。そうして拒絶されるのは、アンプであり、キレス自身。
また、そうされる理由が確かに自身にあることが、今のキレスには分かる。“分かってしまう”のだ。
通り過ぎたり、どこかに退けることもできず、……そうして、肯定するしかなくなる。自身の存在を否定する声、それを、受け入れざるを得なくなる。
だれもが分かるはずのものが分からないこと。そうして生み出される、状況にそぐわない反応。血液に対する異常なまでの執着。異質な瞳の色。気分が高じると、自分自身の感情が制御されずに、周りを巻き込む力となって現れること。
自分自身が何者であるか、それを知ることもなく。……いや、知らなかったからこそ。
“月は魔性である”
人々が噂した通り、それは死に近しい力。……なぜなら、月神アンプは冥王ウシルの子であるのだから。
そうして人々は死を恐れるように、その娘を恐れる。当然のことだ。――少女がそれを知らなかったとしても。
決して望まれない、誰からも望まれることのない、それが当然であること。
死を好み求めるものがどこにいる?
アンプ自身でさえ、死を意識した瞬間にはそれを恐れるのだ。
そう、あの時――大地の剣をその身に受けたとき。
自身の感情をはっきりと認める間もなく、「あの」感覚が再び襲う。身体の芯からどおっと湧き上がる、黒々と渦を巻くもの――それは、キレス自身もよく知る感覚。
何かが裏切られたと感じたとき、何かが覆されたと感じたとき、自分がそれを意識するより先に、身体を支配するもの。その瞬間、自分自身でさえそれを不快に感じながら、しかしすぐにそうした感情さえも呑みこみ、巻き込み、引き連れ、そして――四肢の隅々から髪の毛一本ずつのすべてに染み渡るように、めぐる。ついにはこの身に収まりきれないほどに大きく膨れ上がり、手に付けられないほど暴れ狂う。
それはほんとうに自分自身なのか。身体が、心が支配され、何者かに操られているような――
いや、「それ」を生み出したのは紛れもなく、自分自身なのだ、それは分かっている。だが、自分は既にそこにはなく、そうして、そこから放り出された「自分自身」はそれを、どこか遠くから眺めている。
ついに染み出す「それ」に、呑みこまれるひとびと。やがて、大量の、死が、ひろがってゆく。
どうにもならない。そう、どうにもならない。その力は、自分自身の意思を離れてしまっている。確かに自分であったものが、自分でない化け物となって、今はどうすることもできない。ただ空っぽになった心で、呆然とそれを映すほかない。何も感じない心で――悲しみも恐ろしさも、怒りも、そこにはもう、何もない。ただただ呆然とみつめる――自身の力が、生を呑み込み、死を生み出す、そのさまを。
……これが、月の力。
人々が忌避したとおりの力。自分自身にとってすら、得体の知れないもの。突然湧き上がり、身体と心のすべてを支配するもの。
それは、キレス自身が受け継いだ力。誰よりも自分自身が、はっきりと「それ」知っている事実。
この身の奥深くに、確かに宿る、同じもの。
これが、月の、「本質」――。
*
カナスは疲労の色を濃く浮かべた瞳で、対峙する北神を捉える。
――おかしい。
両手に短剣を握るその男とは、以前北で交えたことがあった。北の大地神セトと共にいた男だ。
地属の下級神。それがそのときの認識であり、今でも変わらない。だが――カナスは苦戦を強いられていた。いや、決定打といえるはずのものを叩き込みはした。血の滴る脇腹、傷は浅くはないはずだ。それなのにこの男は、口元に張り付いた笑みをわずか一瞬さえ消そうとしない。
(効いてない……!?)
カナスは軽く舌打ちし、低い姿勢で槍を構えると、次は男の右腕を狙う。素早い身のこなしで接近すると、男の描く二つの刃の軌道の間を縫って跳躍し、高く振り上げた槍の柄で狙い通り右腕を打ち払った。
確かな手応えと、鈍い音。弾かれた衝撃で地に伏せられた男の右腕は、あらぬ方向に曲げられ、大きく腫れ上がる。
ところが、男は呻き声を上げることもなくゆらりと身を起こすと、右肩からぶら下がるように曲げられた腕の先に剣を握ったまま、大きく腕を振り回した。
乱れ狂う刃の動きを避けるように距離をおくカナスの目は、驚きよりも恐怖に見開かれた。
男は致命的とさえ思える負傷に、やはり表情一つ変えることもなければ、動きが鈍る様子さえない。それは、まるで見えない糸に操られた人形のよう。
「何……なの……」
意思の伝わらぬ腕の奇妙な動きに揺れる刃は、男の体さえ切り裂いた。それでも、不気味な笑みを浮かべ続ける男に、カナスは我知らず身を震わせた。
作品名:睡蓮の書 三、月の章 作家名:文目ゆうき