睡蓮の書 三、月の章
一方シエンもカナス同様、北神らの異様さを感じ取っていた。
カナスが対峙している男は、地の聖域で見た同属の神ミンに違いない。そしてヤナセが争った風神ベス。どちらも、この剣で始末したものだと思い込んでいた。ただ確認はしていなかった。生きているとは、思わなかったのだ。
シエンが奇妙に感じたのは、彼らの目だった。ミンやベスに限らず、ここに群がる北神らのほとんどが虚ろな目をしている。焦点が合わず、まるで眠りに落ちる前のようなとろんとした目。それは精神を支配し幻を見せる薬を使った状態に似ている。操られているのか……そうでなくても、正常な状態ではない。
戦い方もまるで異常だった。攻撃は仕掛けてくるが、身を守ることをしない。そしてどれだけ傷を負っても、勢いを落とすことなく襲い掛かってくる。まるで死など恐れるに足りないというように。
終わりなき作業の繰り返しのようだった。疲労の蓄積が激しい。
ヤナセは幾度か竜巻を引き起こしたが、力を収めた後どこからともなく霧が漂い始め、消耗した神々を癒していくのを見た。水属は傷を癒す力に最も長けており、この霧も水属神のものに違いない。そう考え霧を払おうと力を用いるが、自然に生じた霧でないそれは簡単には晴れなかった。さらに、短時間に驚くべき回復力を見せ付けるところから、かなり高位のもの――おそらく、最高位「水神セテト=ケネムウ」――の術であるように思われた。こちらがどれほど大規模な力を用いようと、広範囲を短時間で回復する力を用いられれば、力を消耗するばかりだ。まずこの力を絶たねばならないだろう。
そのとき。上空から北の神々の動きを注視していたヤナセは、ふと、彼らがひとつ所に……始めに姿を現した北方に集い始めていることに気付いた。
シエンやカナスと交えていたものたちも、力を引いて北へ向かう。
(撤退か……?)
警戒を敷いたまま、ヤナセはシエンらのいる場所へと戻る。シエンらも、まだ油断は出来ないと判断し、緊張を解かない。
霧が、静かに晴れてゆく。
一箇所に固まる北神らは、そこで、左右二群に分かれていた。――正確に言えば、その中央に道のようなものを開いていた。
その道をゆっくりと進み来る人物。シエンとヤナセが、続いてカナスが反応する。
遠目ではあったが、その様子は目で捉えることができた。後ろに束ねた黒髪、褐色の肌に白い着衣、その上にひだのついた薄織りの亜麻布をゆったりと重ねて羽織る若い男神の姿。
細長い聖杖を手に、一歩、地を確かなものと認めるように足を踏み出すとその毎に、足下の地からすうと緑が伸びゆき葉を広げる。地にそっと芽を出した草々が、まるで内なる力を呼び起こされるように急激に成長してゆくさまは、敵であるという事実も忘れ、ただその神秘に言葉を失い見入るばかり。
男神が通り過ぎたその道には、膝を越すほどの丈をした草があふれている。種類も、おそらく色もさまざまな、その場その場の命の形。
北神らの前に立ち、彼はその歩を止めると、手にした聖丈で地をひと突き。……すると、中央神殿を囲っていた巨大な壁――シエンが生み出し、北側のみ崩されたもの――が地に音を立てて沈みゆく。
シエンははっきりと悟った。……いや、その存在をつかんだ瞬間から、彼は「知っていた」。
純粋な地属ではないが、地の力を知り尽くした存在。
この男神こそが、北神らの主神。大いなる恵みの主。
「生命神ハピ」に違いなかった。
作品名:睡蓮の書 三、月の章 作家名:文目ゆうき