睡蓮の書 三、月の章
しかし、それが崩れ去るのは一瞬だった。昨日父が、続けて母が、敵の手によって殺害された。それも、悲惨な方法で――父はその身を切断され、母は身体の内側から引き裂かれるように損傷していた。
思い出せば激しい憎悪が湧き出す。自分と、そして妹たちにとっても、かけがえのないものを、ひとつでは飽き足らず、二つも――それどころか、あのように邪悪な方法で、奪っていった。
けっして許さない。敵であればどのようなものでも、生かして帰すつもりはない。生命神は月を捕らえよと命じたが、たとえこの中に月があったとしても、加減する気など毛頭ない。父と、母のされたことを、同じようにして返してやらねばなるまい。その苦痛を、何倍にもして、返してやらねば――!
姉に諭され、末の妹スーは小さく唇を噛んだ。……そうだ、姉と約束したのだ。それに、自分だって、許せない気持ちは同じだ。
とはいえ、スーはもう体がくたくたに疲れていた。せめてもう少し回復するまで待ってと、姉に声しようとしたとき……、スーの身を包むように水の膜が現れた。それがひんやりと肌に触れると、僅かに疲れが癒される。スーははっと顔を上げ、少し離れた位置にあるもう一人の姉の姿を映した。
「ケミ姉……ありがと……」
優しく笑みかける次女に、スーは勝手な自分の考えを恥じた。疲れているのは、姉たちも同じなのだ。
妹たちの様子に励まされるように、知神レルはぐっと自身の杖を握り締めた。
三姉妹を結ぶのは、常に長女レルの役割だった。知属の長という高い位にあり、多くの神々に助言を与える立場にある彼女は、妹たちの誇りでもあった。妹たちは、何か悩み事があれば、両親よりもまず姉に相談したのだった。
上の妹ケミは水属の力を得、攻撃力には乏しいが、四属の神の一人としての感覚は相応に備えていた。水属らしく、回復に関する力を誇り、また僅かだが精霊を生むこともできた。それなりに集中すれば、近くにある存在を捉えることも可能だ。
末っ子のスーは、力、神格共に低く、たいした術も扱えない。それでも姉たちと息をそろえて生み出す術は、それぞれの力を併せただけのものの数倍にもなる。
それが姉妹の絆であり、レルはその知力で妹たちの力を最も効果的に引き出す術を編む。妹たちは姉に信頼を寄せるのと同じ気持ちで、すべての力を委ねる。そうすることで、一人の大神ほどの大規模な力を示すことができたのだった。
「次で、終わりにしましょう」
妹たちに呼びかけると、レルは意識を集中させるため、目を閉じた。
そのとき――ふと、上空から届いたかすかな低音を捉える。
遠くて聞こえづらいが、抑揚少なく、途切れず流れるそれが知属の唱える術であると、レルにはすぐに分かった。
「あの男、まだ自分の置かれた立場が良く理解できていないようね……」
つぶやくと、うっすらと嘲笑する。――が、直後、捉えたその言葉に、彼女ははっと硬直した。
《…… Akht Imnt, aAwy m Hwt mHwt…… ――西の地平線、北の神殿の二対の門扉……》
(今……、なんと……?)
まさか、そんなはずはない。レルはくっと眉を寄せる。
知属の呪文は、火水風地の精霊の力を借るものだ。それらの名を、縁ある地を、性質を、ときに支配者の名とその正体を、言葉に表して威を示し、支配して操る。――だが、いま使われた言葉は、四属の精霊や神に属するものではない。
それは、……そう、「冥府の門」。「西の地平」つまり死者の国への入り口となる場所、それは、この北の神殿にある、「門」である。
そんな言葉を用いる呪文など、あるはずがないのだ。それは死に属するものであって、精霊の存在しない世界の入り口であるのだから。
(あの男、何を……)
意味の分からない言葉を連ねるほど、状況に窮しているのか。……こんな言葉、唱えたところで、何の意味を成すものか。――レルはあしらおうとするが、しかし無視できない。彼女が知属であるからこそ、自身の「知」の枠を外れるものを無視することはできないのだった。
その声が言葉とも気付けない妹たちにとっては、耳をすますほどの音ではなかった。だから、姉が何に縛られ、動きを止めたのか分からず、怪訝そうに、そして心配そうに、姉の様子を捉えていた。
レルの耳には、その声が今ははっきりと、意味ある言葉として聞こえてくる。
《wn n.i sbAw, snS n.i arryt.Tn ――我がため門を開け、汝ら、門扉を開け放て。
r rkh.i rn.nw nTrw imy DwAt, ――我、冥界のうちにある聖なる者どもの名を知るために、
wn n.i, awy.Tn bntyw! ――我がため開け、汝ら、その腕を、狒々たちよ!》
(門を開くですって……? 一体、何のつもり……)
先刻、レルが語って聞かせた「冥府の門」の存在を、男は信じられないといった様子だった。それを今は認め、利用しようというのか。
(――誰かを、蘇生させようとしている?)
自身が聞かせた言葉が、きっかけとなっているのならば、もしや。
(馬鹿な。蘇生の術は、我らが主ハピ様だけに成しうるもの――身のほど知らずが、愚かなこと)
レルは冷静さを取り戻し、妹たちを見渡すと、うなずきかけた。
「さあ、――」
言いかけた、直後。
それはほんの一瞬の出来事だった。
僅かな明かりに照らされるその地下の空間に、すう、と闇色の筋が引かれ……、
それと気付く間も無く、レルの目の前で、妹ケミの身体が歪んだ。
目の錯覚だと思った。そのとき聞いた音、何やら水気のあるものを吸い込むような、ずずず、という不穏な音――遠くから、いや、近くから……?
レルの瞳に映る、妹ケミの姿……その、白いドレスの胸の辺りに、真っ赤な、大きな斑点がひとつ。そのまま、ケミの身体がくず折れる。
「あ……」
妹の名を呼ぼうとした。しかし、レルの口から出たのは、吐息のような音ただそれだけだった。
自身も床に崩れ落ちながら、足下を満ちるぬるぬるとした液体を知る。遅れてくる激痛に、すうと意識が遠ざかる。
(冥界の……門――)
それが開かれるとき、何が起こるか。
ハピの力によって、死者は蘇る。そうだ、しかしもうひとつ――ずっと以前に一度だけ、別の例があった。
冥府の門は、生と死の世界を隔てる門。それは、死への、入り口。
本来、それを開くことは、禁忌である。
なぜなら、死の世界にある闇は、生を喰らうものであるのだから――
「……っいやああぁぁぁ……!!」
血塗られた地下に、少女の叫びが響いた。
*
ひやりとした空気が身を包む。
白く漂う霧。それを視認できるほど、周りが明るくひらけている。そして、土と緑の、湿った匂い。
ケオルはしばらくしてやっと、そこが今いた空間と別の場所であることに気付く。
しっかりとは開いてくれない目をしばたき、目の前の石造の建造物を映すと、見覚えのあるそれは、中央神殿の入り口の門であった。
途端に力が抜け、ケオルはがっくりと地に膝をつき、うずくまった。
「お前さ、なんでお前が、そんなになってんだよ」
作品名:睡蓮の書 三、月の章 作家名:文目ゆうき