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文目ゆうき
文目ゆうき
novelistID. 59247
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睡蓮の書 三、月の章

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 うずくまり、激しく耳をかきむしるようにして、キレスは叫んだ。途端に、彼が維持していた結界が、灯していた光とともに、弾けるようにして消え去った。
 あまりに不快な感覚。一瞬我を忘れたキレスは、無意識に力を放ち、それが、ケオルの腕や頬に赤い筋をいくつか刻んだ。
 結界が解かれたことで、二人は地に投げ出され、激しい風雨にさらされた。刺すように降り注ぐ雨――初めの頃に比べずいぶん弱まっているとはいえ、数秒でずぶ濡れになるほどの威力。このままでは、そうと意識されないまま体温は下がりつづけ、危険な状態となるだろう。
 しかしキレスは結界を作らなかった。――作り出す余裕がなかった。
 暗闇の中、叩きつける雨音に、激しく繰り返されるキレスの呼吸が混じる。ケオルは、キレスが無意識に放った力によって負った腕の傷を押さえ、身を起こす。
 今、何が起こったのか。――キレスは、瞬間移動の術を用いようとしたのだ。この閉じられた空間から、脱するために。
 「裏側」へ空間を開き、つなぎ目を閉じた直後、「表側」の別の場所と繋げば良いのだ、と言った。また、今あるこの闇色の空間そのものも、つなぎ目である一点以外は、異界に作られたものである、とも。キレスは、その力を用いるために、この空間の一部ないし全体を、意識せねばならなかったはずだ。
 異界というのが、「冥界ドゥアト」であるとすれば――「予言書」に記されたドゥアトの性質に、こういったものがある。――そこは、四属のすべてが地上と同じ形では存在せず、その力を持ち得ない。代わりに、その場を支配するのは、大いなる言葉である、と。
 この空間に満ちる力は、北の知神の唱える「呪文」によるものだ。また、この空間全体を支配し、条件付けているのは、彼女の描き出した言葉である。両方が、もしくはどちらかが、異界ではより影響をもつものとなっている可能性はあるだろう。それが、実際に「音」となって、キレスの耳に届いたのかもしれない。
 またキレスは――幼い頃からそうだったが――音には特に敏感なことがあった。いつも、全てに対して、というわけではなかったが、悪いことに、今そういった特性が現れているのだろう。
 もしかしたら、異界の力を操る彼にとっては、異界の性質同様、言葉が与える影響が、普通よりずっと大きいのかもしれない。
「……」
 ケオルは目を閉じた。雨音がすっと遠ざかる。
 代わりに脳裏を駆ける、キレスの言葉。
 すべての「裏側」に存在する「異界」。キレスの捉えている空間の概念を、その言葉から具体的なイメージに変えてゆく。
(裏側に、空間を、開く――……)
 予言書の伝える、異界の性質。その知識を、言葉として彼は手に入れていた。また彼は、月の性質について知ろうと書物を読み漁り、いつかこれを自身の力として扱うことができればと望み、しかし何度試みたところで、示すべき道筋が思うように構築されることはなかった。
 それらが今、これまでまったく想像しなかった形を組み立てようとしていた。それは自然に、そうなるべくして成っているのだというように――キレスが語った言葉が、芯となって。
「“ウプ・ウアウト”――」
 ケオルは思わずつぶやく。
 と、そのとき、彼らの空間を吹き荒れていた風雨がぴたりと止んだ。女神の詠唱が途切れたのだろう。これだけ長々と詠唱を続けていたのだ、かなり消耗したに違いない。
 ケオルは自身の神杖をその手に現した。この機会を逃すわけにはいかない。
 この場で有効なのは唯一、月属の術のみ。キレスに対して障害となったものは、自分にとっては障害となることはないはずだ。自分とキレスは、性質が異なっているのだから。
 しかしだからこそ、これが成功する保証もない。
 まだ一度も詠んだことのない文言。前例もなく、それを確かにさせる公式など誰も知らない。彼の認識が間違っていれば、まったく意味を成さない言葉の連なりとなる。成功の確率など分からない。――だが、躊躇っている暇はない、敵が次の攻撃に出る前に……!
 ケオルは唱える。低く、祈るように、慎重に言葉をつむいでゆく。過去に得てきた情報から、つい今手に入れたもの、そして、敵から与えられたもの……全てを用いて。
 キレスははっと我に返る。ケオルの声のためと言うよりむしろ、この空間に及ぼされた小さな力を、感じ取ったために。
 声が響く。次第に大きく、空間を満ちる。
 ケオルの目の前に、穀粒ほどの小さな点が生じる。
 詠唱は続く。黒い粒――空間に開かれた穴――は、僅かに、ほんのひとまわりばかり、広がったようだった。
 しかし、なかなかそれ以上は広がる様子がない。
 いつもと違う――ケオルは思った。身体が鉛のように重い。まだ思いつく限りの文言をひととおり唱えた程度であるというのに、体が砂に埋もれているような圧を感じる。肺が締め付けられるようで、声を絞り出すのがやっとだった。何が問題なのか、詠唱にここまで負担がかかることなど今までなかった。しかしこれが異界由来の力を示すものであればこそ、その現象がこの術の成功を保証しているようにも思われた。
 ケオルは何度も息継ぎをしながら、掠れた声を張り上げる。呪文の詠唱は、流暢に繰り返されることで威力を増すものだ。あまり上等な詠み方とは言えないが、それでも続けなければ……途切れたら、終わりだ。
 空間は確かに、開こうとしているはずだ。しかし……もしこのまま広がることがなければ無意味になってしまう。この程度の穴では、人一人包むことも通すこともできず、この場を脱することなど不可能だ――。
 声が押し出される。しかし、いつまで続けられるものか、それは不安定に強弱を繰り返す。
 ケオルは焦りを募らせる。それとは対照的に、キレスはまるでその一点にひきよせられるように、身動きひとつせず、ただじっとそれを捉えていた。
 そして瞬間、キレスの瞳が透き通るような紫の光を灯す――。

      *

「ケミ、大丈夫……!?」
 肩で激しく息をしながら、膝を崩した妹を気遣う北の知神レルは、結い上げた髪の乱れを直すふりをして、呼吸を整えた。
 ケミと呼ばれた女神は、目を開くことも出来ないほど衰弱した様子で、しかし健気にも、弱々しく、うなずいてみせるのだった。
 レル自身も、かなり限界に近かった。このように長く声を上げ、言葉を連ならせることには慣れていないのだ。しかし今、自分が疲れを見せれば、妹たちが不安になる。終わらせるまでは、気を抜いてはならない。そう、自身に言い聞かせる。
「レル姉、やったの……?」
 末の妹スーが息を切らせて尋ねる。
 知神レルはほとんど反射的に、上の妹ケミに視線を投げる。ケミはすぐにはそれに応えなかったが、やがて一度こちらに顔を向け、ゆっくりと、首を振った。
「……まだだわ」
「うそっ……! もう、無理だよぉ……!」
「母さんの仇を討つのよ、スー。父さんの分も。そうでしょう?」
 スーたち三姉妹の父母は、十年前の戦を幸運にも生き抜き、生命神の宝珠復活計画で犠牲になることもなかった。多くのものが亡くなった中、それは奇跡に近いことだった。この十年間、多少の緊迫もあったが、幸福な日々が続いていた。