睡蓮の書 三、月の章
闇を見上げ、しかしまるで無防備なケオルの様子を、キレスは戸惑いを混ぜ、不安そうに見守っていた。敵を前に、無関係とも思われる対話を繰り広げようとする様子は、他の属性から見ればひどく奇妙な光景に思われたろう。しかし彼らにとっては――言葉こそがその盾また矛となる知属だからこそ――まるで自然なことだった。
「――『恵み満ちゆく果てに座するもの』……」
ケオルは声する。予言書第51節――このたび新たに表されたものより、一つ前の節。父の代に現れ、父が解くことのできなかったもの。
「『その支えたる“ルウティ・レクウィ”に負われ』、」
さまざまに解釈可能なそれは、しかし未だ確かだと思えるものがない。ケオルは自分が解いてやるのだと、そう意気込んで、何度声にし、文字にしたか知れない。当然、一語一句、間違えずに諳んじることが出来た。
「「『明ける地平より出で来たらん』――」」
結びの部分を、女はケオルの声にわざと重ねて言った。それから続けて、
「最も難解にして、最も重要な節。これを解くことは、おそらくお前には、不可能」
声高く、そう言い放った。
挑発だ。明らかにそれと分かる――しかし、今それにのらざるを得ない理由が二つある。
ひとつは、情報を得るために。敵が構築したこの、空間を「閉じた」形状や条件等の複雑な情報を、ケオルはまだあまりつかめていない。女神の言葉や様子から、僅かにでも拾い上げなければならない。それが難しくても、こうした間にキレスが何かをつかむことが出来ればよいと、そう考えていた。――しかし時間については、長引かせるのもまた危険だ。敵の数が増えては厄介だ。
そしてもうひとつは、――予言書の解釈そのものを、……自身が未だ成しえないそれを、北がどう結論付けたのか。またこの、北の知属の長の実力が、自身とどれほどの差があるのか。それを、ケオルが知りたいと強く望んだためだった。
「……ずいぶんな、自信だな」
ケオルが慎重に言葉を返す。北の女神は変わらぬ余裕で、流暢に言葉を並べた。
「千年前、生命神を真実と選んだこの名、この号。“真実は、正しき者に知を与える”――お前は、それを認めることね。今こそ、どちらが知属の長たる資質を持つものであるか、その名『判神ジェフティ』において、確かに判別するがいい」
遠くから微かに響く、女神の含み笑い。
キレスは苛立たしげに髪をかきあげると、その腕を前に突き出した。す、と瞳が紫の光を帯びる。
「やめろキレス、刺激するな……!」
力を表そうとしたキレスを、ケオルが小声で窘める。
「んだよ……箱壊しゃいいんだろ」
苛立ちが収まらない様子のキレスに、ケオルは今度は言葉なく、手でそれを制した。
そこへ、
「“恵み満ちゆく”もの」闇の奥から北の女神の声が届く。「すなわち大地を流れる大河」
女神は高々と声を上げ、語り始めた。
ケオルはそれにじっと耳を澄ましている。
“恵み満ちゆくもの”――それが意味するものは明らかである。女神の言うとおり、その解釈はこの地を流れる唯一の大河でしかありえない。それについては異論もなく、また、意見が割れる事もないのだ。……問題は、その先である。
「その果てとは、川の流れの果て。つまり、川の水が流れ着く先、下流」
「……」
「大河の下流にあるもの、それは、ここ『北の神殿』。では、そこに座する神とは?」
ここまで説明されれば、女神が結論付けたものは明らかだ。ケオルはくっと目を細める。
太陽神を主と仰ぐために、知り得ない、と言った。――しかしその意味は、むしろ彼女が、生命神を主と仰ぐがために導き出された偏った結論、主を妄信するが故に曲解されたものではないのか。
女神は言う。
「――それは、ハピ神おひとり」
「都合のいい解釈だな」
嘲るような色を混ぜ、ケオルは間髪いれず口を挟んだ。
しかし……、
「気が早いのね。重要なのはこの後、そうでしょう?」
女神はその反応さえ予測できていたというように、笑う。
そうしてまた、続けた。
「……『ルウティ・レクウィ』。これはもちろん、地平を示す双頭の獅子」
続けてつむがれる女神の言葉を、ケオルは半信半疑で聞いていた。地平を示す双頭の獅子――そうだ、それも候補のひとつとして上がっていた。しかし――
「『明ける地平』とは」ケオルの思考を遮るように、女神は言う。「大地の力により開かれた、この世とあの世とを繋ぐ、『門』」
「……『冥府の門』……!?」
ケオルが声をあげた。そんな言葉が出てくるなど、欠片も想像しなかったというように。
「何を、唐突な――」
その隣で、言葉を捉えたキレスの目が見開かれる。
冥府の門――この世とあの世を繋ぐもの。ドゥアトの入り口。
知っている……キレスは思った。意識が急激に一点に集い、その道筋がはっきりと示されてゆく感覚。キレスは確かに、「それ」を知っていた。それがどういったものか、そして、どこにあるのかも。
「さあ」と、女神は言った。「少しは自分で考えて御覧なさい。『冥府の門』より、“出で来”るもの。――それは、何を示す?」
「…………」
ケオルは険しい表情を浮かべ、その目を瞬くことなく宙を見ていた。ゆっくりと、肩が上下する。何かを探るように……否、探り当てたのだろうか。
「お前が太陽神の下にあればこそ、この部分は何より明らかであるはず」
女神が言う。しかしケオルには聞こえていないのか、その言葉に何も返しはしなかった。
ケオルの視線が僅かに宙をさまよう。その戸惑いが、キレスにも伝わってきた。彼はいったい何を見、何に戸惑っているのか――?
「“ルウティ・レクウィ”すなわち双頭の獅子が、“負う”ものとは、何?」
女神は、まるで敵に対するとは思われないほど柔らかな声で、助言をあたえた。――それほどの、余裕。
「それは、“日”。太陽……」
ケオルが答える。その視線を宙に漂わせたまま、まるで言葉だけが、心をおいて、導き出されたというように。
「そう。お前の主であるホルアクティの神性、その象徴そのもの」
当然そうであるというように、女神は言った。
女神の問いに正しく答えたケオルはしかし、そうする以前と様子が少しも変わらない。女神の誘導が、彼に何かヒントを与えたというふうではなかった。
「ではそれが、“地平より出で来”るとき」女神はさらに、こう問いかけた。「それは一体何を表しているのかしら?」
女神は、ケオルがその答を知っていると確信している様子だった。
そうしてそれから、ケオルが、それを声にするまでには、しばしの間があった。
「それは……」
答えは明らかだった。そう、ケオルは確かにそれを知っていた、当然知っていた。
「それが意味するものは、『誕生』または『再生』――」
それはまた、彼が、また彼の父ら過去の知属の長が、考え当てはめようとした解釈と相違なかった。
それ以外に何があるだろう? ――しかし迷うべきは、そこではないのだ。ケオルは思考の渦を制するように、その声を上げた。だが、そうしたところで、一度断ち切られた迷いや戸惑いが消えたわけではない。
誕生。再生。――地平から現れる太陽が象徴するもの。
作品名:睡蓮の書 三、月の章 作家名:文目ゆうき