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文目ゆうき
文目ゆうき
novelistID. 59247
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睡蓮の書 三、月の章

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下・かけら・3、北の理《マアト》



 ひょうと音を立て渦巻く風は、徐々にその勢いを増してゆく。
 その唸る音に混じって、ケオルの声が聞こえてきた。普段より少し低く、抑揚も少なく並べられる、耳慣れない「言葉」――呪文を唱えているのだ。
 何をしようとしたのか、知属の言葉を解さないキレスにはもちろん分からなかった。そしてその術は、先ほど見たのと同じ雷光を幾筋か立ち上がらせ、ただそれだけで――ケオルは唱えるのを止めてしまった。
 暴風は縦横無尽に空間を吹き荒れ、体を翻弄する。足をすくわれればそのまま、宙に投げ出されそうだ。キレスは腕を突き出し、その風を防ごうと結界を張った。透明な膜がキレスの腕の先から広がるようにして現れ、風を阻む――
 が、しかし一瞬の後、結界は弾けるようにして消え去ってしまった。
「!?」
 もう一度試す。しかしそれはやはり、広がる過程で突然弾けて消え去ってしまう。
「なん……」
 こんなことは今まで一度もなかった。一体、なぜ――? わけがわからず苛立ちかけたキレスに、
「地に触れさせるな!」ケオルの声が届いた。
 その短い言葉を、キレスは感覚的に理解した。そうして、ケオルの腕をつかんで引くと、
「跳べ!」
 叫ぶと同時に、キレス自身も地を蹴り、みたび結界を生み出す。
 ケオルが戸惑いつつ地を蹴ると、直後、巨大な泡のような結界が二人を包み込み、宙に浮かべられた。
 やっと、うまくいった。キレスは一息つくと、消された光をもう一度灯してみる。こちらも、いつもどおりに灯すことができた。
 風が、結界を激しく擦る。結界内にはその激しい音がくぐもって響いていた。砂も何もない闇色の空間に、光を灯しても風の形を知らせるものはほとんど無かったが、時折それらにビーズの粒――ケオルの胸を飾っていたもの――が混じるのが、光の筋となって見えた。
 完全に閉じた結界の中は重力が弱まるため、天地を返すほどではないが身体が浮いた状態となる。まるで水中にいるような感覚に、慣れないケオルは恐る恐る状態を確認しているようだった。それからキレスを向き、手を触れてなにやら唱え出した。すると風が裂いていった細かな切り傷がふさがり、キレスはそれが治癒の呪文であることを知る。
「……なんなのこれ」
 キレスがぐるっと辺りを見回すようにして、尋ねた。しかし聞こえなかったのだろうか、ケオルは険しい顔つきで天上の闇を――何も見えないはずだが――じっと睨んでいた。
「……さっき、なんで『地に触れさせるな』って言った?」
 キレスはもう一度、今度は少し声を大きくして尋ねた。
 ケオルが言ったのは、結界が地に触れてはならないと、消失するのは、地に触れたためだからと、そういう意味だった。確かにそのとおりだと思った。事実、こうして地に付かなければ、結界が消え去ることはないのだ。
 するとケオルはやっと振り向いて、少し落ち着かない様子で、
「お前の力、俺たちの使う『文字術』に対して無効だろ」
 さっき気付いた、と、そう答えた。
 キレスはぱちぱちと瞬く。……言われてみれば、先ほどこの空間に現れたときも、そんなことがあったような気がする。しかし、なぜ今――
「キレス、この結界、外に声は届くのか?」
 ケオルの言葉がキレスの曖昧な思考を遮る。
「外? 結界の? ――あんま聞こえないかも」
「じゃあ、風が止んだら、一度解いてくれないか」
「は?」
 返事はない。ケオルはまた、上空の闇を見ている。
 キレスは首をかしげた。こんな風が自然に起こるわけがない。当然、北神の仕業だろう。そうしたことを、ケオルが気付かないわけがない。また敵であれば、攻撃は一度で終わるはずがない。結界を解くことの利点が思い当たらなかった。
(何する気だよ……)
 ――しばらくして、空間を吹き荒れていた風がすうと消え去るようにして凪いだ。
 キレスは言われたとおりに、結界を解いてやった。すると、地に足をつくや否や、ケオルはずっと睨んでいた上空の闇に向かい、声を張り上げた。
「“セフェケト・アブウ”『七つの角』――さすが、空間構築は得意とみえる」
 よく響くその声が、闇の中に飲み込まれてゆく。
 しばしの沈黙。――そして、
「……。そう、お前は『選び分かつ者』ね……」遠くから、若い女の声が届けられる。 
「面白いことを考えつくものだな、『計り記す者』」
 ケオルがそれに応えると、
「お褒めに与りまして。……お前もよく気付いたものね。偉いものだわ」
「それは、どうも」
 なにやら秘密めいた名を呼び合い、まるで親しげに言葉を交わす様子に、キレスはよほど相手が誰なのかと聞こうと思った。けれどケオルの、言葉とは裏腹に張り詰めた態度が、それを躊躇わせた。
「キレス」するとケオルのほうから、声を潜めて呼びかけてきた。「この空間、“閉じられている”のが、分かるか……?」
 言われて、キレスは意識を広げる。
 この、闇の空間は、キレス自身が作り出したものだ。元の空間とただ一点でつながっているそこは、その一点を介して出入りが自由である。けれど今、そのつながる点、出入り口となる部分が、喩えるなら箱のようなものに、閉じ込められているということが分かった。
 入り口が閉じられているということは、この空間全体が、閉じられているのと同じこと。
「まじかよ……」
 キレスが苦々しげに呟く。それは、ここからは容易に出ることができない、ということを意味していた。
「どんな形か分かるか?」
 ケオルが早口で尋ねた。
「かたち……」
 その、箱の形を知ろうと、キレスが再び意識を広げ探り始める。
 と、そうした様子を当然知ることのない空間の向こう側から、再び言葉が届けられる。
「太陽神を主と仰ぐ知属の長」
 女は、若く艶やかなその声で、ケオルに呼びかける。
「お前はあの『予言書』第51節の謎を解くことができて……?」
 あまりにも唐突な、その問いかけ。目的も知れないその言葉に、しかしケオルは反応せずにはいられなかった。
 東と北に、それぞれ現れる「予言書」。戦の行く末を示すというその言葉を、知属の長は、その威信をかけて正しく解釈せねばならない。それが彼らの主たる神、生命神または太陽神の、力となるからだ。知属である彼らは、そうした情報の価値をよく知っていた。そうした形を持たぬものが、大いなる神々の力を何倍にも増し、また逆に、大幅に殺ぐ事が出来るものであると。
 だからこそ、女神のその問いかけは、ケオルを戸惑わせもした。知りえた情報をさらす事は、相手に力を与えることと同じ。やすやすと晒すと思われているのだろうか――いや、女神の声色はむしろ、そうした情報を与えてやってもよい、と言っているように聞こえる。
 一体、何のために……?
 情報を与えることでは覆らないほどの優位性を確信してるというのだろうか。……ありえない話ではない、この状況なら――。
(……嫌な性格してるな……さすが、北の知属の長、か)