睡蓮の書 三、月の章
三度くりかえし現れる、守りの力。生きよと求め、引き上げる意思。
あるいはこれで四度目になるかもしれない。父が開いた冥府の門、そこから流れ出た闇色の災いがその場のすべてを……母をも喰らいつくした時。母の胎内で、視力を失いながらも生き延びたこと。
それが何であるかは分からない。しかしはっきりと、それが自身を「生かしている」のだと知れる。
ドサムは胸の前で手を広げ、紺青にゆらめき灯る球を現した。
「宝珠」。それは千年の昔を生きた、初代生命神ハピの大いなる意思。
過去は薄弱たる意思を呑みこみ災いとなったこの力。今は、災いを食い止める唯一の力となるために。
「月を……我が手に」
宝珠の青が、脈打つように光を発した。
*
「気がついたのね、よかったわ」
すぐ上から女の声がした。
キレスは唐突に、現実の時の流れのうちに引き戻された。辺りを見回す。見覚えのない、広い部屋。寝台が整然と並べられている。
「気分はどう? もう少し、寝ていたほうがいいわ」
女神は、東の神殿に住まう風神ヤナセの妻、「治癒神セルケト」のヒスカだった。
「キレス……大丈夫か」
隣の寝台にいたらしいシエンが歩み寄り、心配そうに顔を覗き込んだ。
キレスはまだぼんやりとしていた。この場所と、自分がここにいる理由が、これまでの経緯が思い出せない。今見た夢が胸を占めて、切り替えがきかなかった。
「ここは、中央だ。キレス」それを察したのか、シエンが説明した。「北へ行き、生命神が現れて――そのあとのことは、俺にもはっきりとは分からない。俺たちは中央の守備範囲内に突然現れたのを、カムアが気付いてここへ連れてくれた。生命神の力が侵入者を退けたのかもしれないが……」
シエンは自身の推測を口にしながら、釈然としない様子で首をかしげていた。
「ほんと、無茶なこと!」治癒女神ヒスかが叱咤の声を上げる。「たった二人で北へ乗り込むなんて……もっとよく考えて行動しなくては駄目よ。こんな幸運、二度とないと思ったほうがいいわ」
シエンは肩をすくめ、力なく笑って見せた。
キレスはまだ夢うつつな様子で、視線を宙にさまよわす。
その瞳に、部屋の片隅にたたずむ炎神フチアを捉えると、ぴたりと止まる。それに気付いたシエンが、
「ああ――俺たちは北の『輝神』の奪視の光にさらされ、視力を奪われただろう? ある神位特有の力を解くためには、治癒神の単独の力では不可能なんだ、同属上位の力を借りなければ」
だから、火属の最高位である彼を呼んだのだと。
けれどキレスは、じっとそこに目を据えたまま動かない。
フチアを見ていたのではなかった。彼を目にした途端に、その友人であり、キレスの心の支えとなっていた人物の姿が、呼び起こされたのだった。
いつの間に刻まれたか分からない。それはひと月前、北で太陽神の力の放出を捉えたものとよく似た感覚――もう一つの目が、“見た”イメージ。
その景色はひと月前のものとまったく同じだった。闇色の空間にゆらめき灯る、紺青の光。天井には、所狭しと張り巡らされた樹の根。なにかの隙間からのぞき見るようにして、キレスはその場所に起こった出来事を捉える。北神と思われる男と、それに対峙する、キポルオの姿。北神が手にした、幅広の黒い刃をした剣。キポルオは生み出した植物の蔓でその男の腕をからめとり、そして、剣を持つその腕を自身の腹部へと、自ら引き寄せた。
あっと声を上げるまもなく、キポルオの身体は黒の刃に貫かれ――――
(……っ……!)
ぐらりと視界が揺れる。呼吸は荒く、顔面からはいよいよ血の気が引いている。
ただならぬ様子に女神ヒスカはキレスの額へと手を伸ばす。が、キレスはそれを振り払うと、
「……キポルオは……?」
震える声でフチアに尋ねた。
「南にいるんだよな……? ちゃんと、戻ってるんだろ?」
しかしフチアは答えなかった。訴えるような眼差しを受け止め、ただ一度ゆっくりと、瞬いただけ。
「キレス……」
シエンが気遣うように声をかけた。
「なあシエン、お前は何か知ってるのか? キポルオがどうなったのか!」
キレスは喰いつくようにまくし立てる。胸の奥から、闇色のものがじわじわと這い上がり、喉元にちらついた。早く、早くこれをどこかへ追いやってしまいたい。そうではないのだと、これを否定する言葉がほしい。
ところが、シエンはヒスカと顔を見合わせ、困惑気味に瞬くと、
「落ち着け、キレス」何も知らないふうに、怪訝そうに眉をしかめて尋ね返す。「なにを……言ってるんだ? 一体、何の話だ」
「見たんだよ、俺……! キポルオが、あの人が北に――」
「キレス、しっかりしろ」気のふれた友人を正気に戻そうとするように力を込め、シエンは言った。「一体、“誰”の話をしているんだ……?」
その途端。
喉元まで這い上がっていた闇色が、鋭い刃となってキレスの胸を貫いた。
大きく見開かれた紫の瞳。キレスは呆然と空虚を見つめる。
「誰、って……」
キポルオが、“誰”か……?
なぜそんなことを問うんだ。シエン、お前が、なぜそんな――
「!」
突然、シエンが何かに鋭く反応を見せ、その表情を険しくした。そうしてすぐさま膝を折ると、その場から姿を消し去った。
女神ヒスカはその様子に不安をあらわにし、炎神フチアをふ振り返った。彼もまた、シエンの睨んだ方向――北方に備えられた部屋の扉の向こう――をじっと見つめている。
強まる警戒。“何か”が起こったに違いない。それも不吉な……。
それからほとんど時を空けずして、神殿を覆う結界が何者かの力を受け振動した。
ヒスカははっと息を呑み、天井を仰ぐ。
(ついに襲って来たんだわ……、北神が!)
作品名:睡蓮の書 三、月の章 作家名:文目ゆうき