睡蓮の書 三、月の章
上・夢・1、「だれ」
月は魔性である。
千年の昔、月がその力によって初代生命神の力を暴走させたことは、北にも正しく伝わっていた。
その性質を知らねば、ただただ魔の力に呑まれ自身を滅ぼすばかりである。よって月は、在るべき場所で管理されなければならない――生命神ドサム・ハピは言った。
この世とあの世を隔てる、冥府の門のある「場」。侵入した敵が忽然と姿を消すと、ドサムは迷わず地下のこの場へと向かった。主神を追いこの場に現れた神々が見たものは、闇の空間に横たわる大地神セトの姿と、そして、断ち切られた根の束だった。
その根が隠すように捕らえてあったもの、それは、十年前の戦で奪い取った、月の力。
死んだと思われていたその器が現れ、そして、月の力は「解放」される。
最も恐れていたことだった。月の魔性は、意思を持って蘇ったのだ。
未だ敵の侵入のための混乱が収まりやらない中、ドサムは神々を集わせひとつの命を下す。
「月を、太陽神側に渡してはならない。その器ごと、奪還せよ」と。
側近らに後を任せると、ドサムはひとり、ある部屋へと向かった。
神殿地下部より、さらに地下深く。閉じられた、彼だけの空間。
この小さな部屋には、ひと月前に地上部にあったものと同じ、白い壁に囲まれた池があった。そこには今、池の水と同じ深い茶緑色をした丸い葉が三枚、浮かんでいる。飾り気のない部屋には、やはり竪琴が置かれていたが、ただひとつ、決定的に違うところがある。それは天井が開いていないことだった。もちろん、これほど地下深くにあれば、陽光など届くはずもないが。
陽の代わりに、部屋の上部には小さな太陽ともいえる光の球が浮かび、より柔らかな光で――太陽の持つあの突き刺すような、じりじりと焼きあげるようなものでなく――あたたかく照らしていた。
「ホテア」
濃い影を刻んで池のほとりに立ち、ドサムは彼の精霊の名を呼んだ。
ここに来ればまず竪琴を奏でるのが常であった。が、今日はそれをしなかった。
「応えよ、ホテア」
語気を強め声すると、葉の影になって水中に沈んでいた花……睡蓮が、先がほんのりと紅に染まった白い花弁を、ぽかりとのぞかせ、ゆっくりと立ち上がると、それらを開いてゆく。
注ぐ光にほうっと浮かんだ白のうちに、少女の姿が現れた。
生まれたばかりのころは、広げた花と同じほどの大きさであった精霊は、いまや人の幼児と同じほどに成長していた。……精霊の大きさは、その力の大きさを表すというが、人と並ぶほどになるような例は聞かない。加えて少女の姿をした精霊の、その顔に表れた感情――きゅっと結んだ小さな唇、そして主たるドサムを睨むように見上げる大きな双眸――など、まるで“複雑な意思を持たない”精霊のものではなかった。明らかな反抗の意思……絶対的な存在である主に対して、それは考えられない態度だった。
ドサムの閉じられた目はその様子を映すことはなかったが、精霊の意思ははっきりと伝わっていた。ひと月前、ここに閉じたときからずっと変わらず向けられている反抗の意思。
「門を開いたのだな。お前の力で」
そうして敵を招き入れた。それはおそらく主ドサムに反抗の意思を示すために――そう、まるで思い通りにさせてくれない親を、返報とばかりに困らせる子供のように。
「その行為は自身の身を滅ぼす。……聞け、お前のために言うのだ」
幼い子供はその世界の狭さゆえに、己が招いた問題の重大さに気付かない。
ドサムは表情険しく、しかし幼子に言い聞かせるようなゆったりとした口調で続けた。
「私は教えたはずだ。天の陽はお前の身を焼くばかりであると。お前が求めるものがあれば何でも与えよう、だが、あれだけはならぬ」
精霊ホテアはその瞳にいっそうの怒りを満たし、主を見つめる。
ゆらり、と光の帯が少女の身より立ち上ると、瞬間、池を削るようにさっと波紋が広がってゆく。そうして瞬く間に水が激しく波立ち、小石を打ち付けるような音をたてて水滴が白い壁に染みを描く。竪琴の弦がぶちぶちと切り裂かれ、木製の共鳴体がぐわんと悲鳴を上げて床に倒れこんだ。
ドサムの、ひとつに束ねた黒髪が乱れる。精霊の身から放たれた衝撃波は見えない手で主を、この部屋にあるあらゆるものを拒むように遠く突き放す。ドサムは結界も張らずそれを受け止め、皮膚にいくつもの傷を刻んだ。
まるで精霊のものとは思えない、力。生きるためにと与えていた力は、いつの間にか神のそれと並ぶまでになっていた。
身に余る力。それに伴う知も責も負わぬもの。
ドサムの右腕がゆっくりと、精霊ホテアへと伸ばされた。
頭上に掴みかかるように開かれた主の手に、ホテアはびくりと身を強張らせる。迫り来る大神の“威”――それはホテアに対しては初めて示される、有無を言わせず抑圧する力。逆らうことの許されない、その意思さえ圧する桁外れな力。
見開かれた瞳に主の姿を映し、ホテアは畏怖に身を震わせた。いやいやと何度も首を振り、その小さな唇がわずかに動かされ、許しを請おうとしていた。……しかし必死の訴えも虚しく、水中より透き通った水晶の柱が立ち上ったかと思うと、それは瞬く間に睡蓮を呑み込んでいった。
その上に幻のように浮かんでいた少女の姿は、表情も何もかもを固めたまま、すうと消え去ってゆく。
最後の波紋が、池の縁に届く。
静寂が戻る。
池には、水晶の中に咲く可憐な白睡蓮がひとつ、柔らかな光に照らされている。
それは置物のような美しさを留めているばかり。
「眠るがいい」
ドサムは池へと踏み入り、花を閉じた水晶を慈しむようにそっと撫でた。
しばらくして、眠りから覚めるころには――、この世界はより美しく、幸福なものとなっているだろう。
そのときこそ、望むものすべてを与えてやれるだろう。惑わすもののない世界、縛るもののない自由。不安を生むすべてを払い、小さなその身が、そして心が傷つくことのないように……やわらかな光の下で、安らかな日々を。
それが、ドサムの願いだった。
そして同時に、それが彼の生きるうえでの使命であった。
誰に教わるでもなく、生まれ出でた時から彼自身が“知っていた”こと。それを望み、ただその目的のために生きてきたのだ。
「その時が来るまで……私が、お前を守るだろう」
――ふと。
自身の発した言葉に、先刻のあの“感覚”がよみがえる。
敵対する大地神がその命に代えて力を放出しようとしたあの瞬間、突然介入した“第三の力”。
その場にいた誰にも気付かれることはなかったろう、その力は――時を、止めたのだ。
そうしてドサムに襲い掛かろうとした力を止めるばかりでなく、それがこの身に届くことのないよう、引き戻しさえした。
空間をそっくり包み込み、その一瞬だけ別のことわりを流し込んだような異質な感覚。
ドサムはその感覚を、その力の存在を、知っていた。それは過去に二度、彼を守り助けたもの。
一度目は、彼が成神したばかりのころ。正式に神の名を得、待ち望んだ儀式に臨んだ時、父と同じように災いに呑まれかけたこの身を救った。そして二度目はつい最近――あの太陽神が、神聖なる場で力を放った時ふたたびこの身を守ったのだ。
作品名:睡蓮の書 三、月の章 作家名:文目ゆうき