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文目ゆうき
文目ゆうき
novelistID. 59247
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睡蓮の書 三、月の章

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 傍に付き添っていた水神デヌタの驚きも激しかったが、ドサム自身も、己の力に圧倒されていた。その感覚は、何もかもを新しく見せた。確かな自信が、涼やかな風となって頬をなで、吹き抜けたようだった。
 北に戻ったドサムは、早速その力を戦で倒れたものたちに用いた。その術は、頭部があまりに激しく損傷している場合には無効となったが、ほとんどの場合は蘇生に成功した。その、奇跡としか言いようのない出来事に、神々はその力を畏れ尊び、そうして、ドサムのその存在は絶対性を確かにしてゆく。
 まだ九歳だった当時のドサムには、最低限の生命活動を戻すことで精一杯だった。それは精霊を据えた状態と傍目には同じだったが、その意味は大きく異なっていた。やがて成長するに連れより力を増したドサムは、最低限の生命維持にとどまらず、再生者の自発的な活動まで、可能にしたのだった。
(ついに――そう、思った)
 そのことが誰の目にも明らかになったのは、成神したその時。ドサムが正式に、「生命神ハピ」の称号を得たときだった。
 横たわり、ただ呼吸だけは確かにしている状態のものへと力を注ぐと、まるで永い眠りから覚めたというように、ゆっくりとその目が開かれ、そして――体を起こした。開いた目は確かにものを認識し、立ち会ったものを不思議そうに眺める様子があった。
 ――成功だ、と。ついに、「蘇生」したのだと。誰もがそう思った。
 しかし……想像していたとおりの――つまり、生前そのままの様子に、時間を巻き戻したかのように生き返らせたかというと、それは違った。
 まず、発語がなかった。口を開き、喉の奥から音を発することはできたが、意味のある言葉とは違い、唸るようなものか、喃語のようなものしか聞かれなかった。こちらの言うことも、聞こえている様子で反応はするが、意味は理解できていなかった。体を動かすことはできたが、どこか奇妙な印象を受けた。それは他のどの個体でも同じだった。声を発さないものもあれば、激しく叫び続けるもの、暴れまわって手のつけられないものもあった。
 それはまるで、獣である。
 ドサムはそうした様子を憂慮し、再生者らの活動を一部抑え、制限するようにした。――こうして今の再生者のありようとなったのだった。
 成神して四年の歳月が過ぎた。その間に幾度この力を用いたかしれない。しかし、これ以上の結果は望めなかった。
(何かが、足りない……)
 そう考えずにはいられない。
 しかし、それが何であるのか、わからない。
 人を人たらしめる何か。それがどこに由来するのかわからない。
 もうひとつ、大きな壁が立ちはだかっている。そう感じた。それは十年前にしたように、新たな力を知ることでしか、克服できないような。
(必要なもの、それは、『月』――)
 十年前のあの時、睡蓮を連れ帰ることがなければ、自分はここで満足していたのだろう――ドサムは考える。
 長く傍に仕えていたデヌタでさえ知らないだろう。睡蓮の精霊は、連れ帰った後に、一度目覚め、そして、すぐに死に絶えていた。
 その睡蓮を連れ帰ったことに特別な理由など何もなかった。ちょうど傍にあった、それだけだった。死にかけであったから、実験にはちょうど良かった、それだけだった。それは精霊を宿しており、精霊は人より単純であるために、術を施し結果を見るのは容易いと考えた。ただ、それだけだった。
 睡蓮の精霊は生まれたばかりで、まだ目覚めてもいなかった。それはもともと葉数も少なく、根も貧弱で、長く生きられるようには見られなかった。それでも、影の多い、水の少ないその場にとどまり、どうにか、奇跡的に、命をつなげてきたのだろう。高位の精霊が自生する場合は、その宿となるものが何百年と年を重ねたものか、特に大きく生長したようなものがほとんどだが、この睡蓮は、そうした過酷な環境に生き抜いたことで精霊を宿した、珍しい例だった。
 放っておけば、精霊が目覚めることもなく宿となる睡蓮が枯れ、精霊も消滅してしまいかねなかった。ドサムは慎重に、かすかに力を注いで、それを目覚めさせる程度の援助をしてやった。かくして、ドサムがそれを連れ帰った数日後、睡蓮は、一度その花弁を開き、精霊が目覚めたのだった。
 目覚めの瞬間のことは、よく覚えている。
 それは、幻のように幽かな音。
 竪琴の弦がひとつ、弾かれたような、音。それから静かに、花弁が開かれてゆくにつれ、旋律を導き出す。流れるように、それは鏡のような水面に波紋を広げるがごとく。
 目が見えないからこそ、音は何よりドサムの心を揺さぶった。人であれば産声を上げるだろう。けれどこんなにも小さく弱弱しい植物が、人のように庇護を求めて泣き叫ぶのとは違って、ただ歌うように、幽かに響かせるその音、旋律。
 それは竪琴を奏でるのによく似ていた。
 どのように弾けば、同じ音となるだろう――ドサムのうちに、今も抱くその思いは、このとき初めて生じたものだった。
 北の神々の頂点に立つものとして、ドサムは彼らの未来を、進む道筋を考えてきた。死にゆくものの命、それを留めることを考え、傷ついたものを回復させることに力を注いできた。彼にとってはどの命も、形は違えど平等であり、その個を意識しようと考えることもなければ、必要もなかった。
 そのときが、初めてだったのだ。
 睡蓮の精霊は、しかし一日ともつことなく消滅した。……なにも不思議なことはない、そうなるようにドサム自身がしたのだ。より力を与えればより丈夫であっただろう睡蓮を、そうならないようにと、ドサム自身がそうしたのだ。
 精霊が消滅してから、植物そのものが枯れ果て「死」を迎えるまでには、時間差があった。ドサムはそれから、はじめにそうと決めたとおりに、枯れた睡蓮に力を注いだ。植物の形を戻すことは、人ほどに複雑ではない。ただこれまでは、人の形のように、植物をそっくり前の状態に戻そうということがなかった。植物は内包するその種子をはぐくみ、新たな緑を芽吹かせるのが普通だったからだ。
 初めての試みではあったが、それはさほど困難というものでもなかった。程なく形は元のとおりに戻され、貧弱な茎から蕾が伸びる。
 ――しかし、精霊は宿らない。
 ドサムは何度もやり直した。精霊が宿らなければ、その姿を戻さなければ、これは何の意味もなさないのだ。人間界で少女にしたように、そして戻ってから神々に力を注いだように、精霊も戻るのだと思っていた。神々ですら戻せるのだ、精霊ならば容易いだろうと、そう信じていた。それでも……何度やり直したところで結果は同じ。精霊は、宿らなかった。
 信じられなかった。突然力が消失したのかと、初めて自身に不安を覚えたりもした。しかし神々に注げば、生命活動は確かに戻されるのだ。まだ成神していないために力が及ばないのだろうと、そのときは考えた。しかし成神し、神々の蘇生が――まだ課題を残しているとはいえ――実現した後も、精霊は生まれなかった。