睡蓮の書 三、月の章
元のとおり戻すことが、新たに生むよりも難しいとは、考えもしなかった。成神すれば精霊を生み出すことができる、ドサムにももちろんそれが可能だ。しかしそれでは意味がないのだ。あの睡蓮の精霊を、あのまま蘇らさなければならないのだった。あの旋律を、同じ音を、戻さなければならないのだった。
実験であったはずの試みが、彼の執着から、彼自身の生きる目的となっていた。
他のどの音でもいけない。同じ睡蓮であっても音が違う。あの音、同じ音でなければ。
焦りがあった。今も旋律は覚えている、そのはずだと信じていたかった、けれど時と共にそれが薄らいでゆくのを感じていた。次第に、失ったことを後悔するようになった。
……十年かかった。
再びその睡蓮に精霊が宿り、そして、目覚める。
あの旋律が、よみがえる。
その瞬間、心を満たした感情を、どう表現すればよいのか分からない。
ただはっきりと言えるのは、……それは初めて月に触れ、あの力を手に入れた瞬間にも、蘇生が成功したと思った瞬間にも勝る、大きな心の揺らぎ。
自身のうちから、どおと波がうちよせ、全身を呑み込んで浸してゆくような……満ち足りた感覚。
ドサムの、その音への執着が、個としての精霊へ力を注ぎ続け、同時に、ドサム自身の心を育み続けてきた。
十年の間。心を傾けた時間だけ、その密度だけ、思いは強くなる。
千年前のハピと同じ思い。それは、「願い」。
この存在を、二度と失うことのないようにという、願い。
「彼ら」はその願いのために、進むべき道を知る。
戦の終わり、新しい時の始まり。
ケセルイムハトの示す、その道を。
*
キレスは手を伸ばす。
自身の意識の、奥のほう。
泥のように溜まった闇色をかきわけ、もっと深く、ずっと奥の、その底にあるものを、確かめるために。
沈み込むたびその泥は重たく体に覆いかぶさる。何かの拍子に突然表に噴出するそれらは、今はどろどろと鈍い動きをして、どこまでも深く深く満ちている。
この闇色が月の力だとしたら、こんなところまで浸食しているのだろうか……? こんなにも執拗に、自分というものを覆い隠してしまっている。
べっとりと絡みつくそれを振り払うようにして、キレスはさらに奥へと潜る。息苦しさに耐え、押し戻そうとする闇に逆らい、そうして――、
必死で伸ばした腕が、ついに闇の渦を抜けた。
その時、
五本の指が、そこにあるものを掴もうとして、……するりと宙を掻く。
(なん、だ……?)
握るその手を、ゆっくりと開いて、掴んだはずのものを確かめる。
その手には、何も無い。
何度握ろうとしても、何も手に触れない。
キレスは闇を掻き分け、目を凝らし、渦の中心を見た。
……何も、無い。
闇の底、その中心は、そこだけぽっかりと、空洞だった。
胸に滲む戸惑い。そこにあったものがどこかに逃げ出したのだろうか、辺りを見回す。しかしそこには、闇以外に何もない。
これはどういうことなのか。
自分自身が、月の力に侵され、完全に無くなってしまったのか……?
(――いや、違う。これは……違う)
じわ、とまた湧き出す、闇。それは、闇の中から生じ、闇をより濃くしてゆく。
そう――ここにある、闇。これは、月の力ではない。
これは、感情だ。自分自身の、感情。
今したように、闇色の感情の中から同じ闇が生み出され、生み出された闇がまた闇を生む源になる。
何度も何度も繰り返し、闇はより濃く重なるばかり。
重く沈み込み、何層にもなって凝縮しているもの。べたべたとまとわりつく、この上なく醜悪なもの。とつぜん体中に染み渡るようにして、支配してしまう闇。自身を翻弄し続けるもの。
それは自分自身で生み出し、そして、自分自身を、形作ってきたもの。
(まさか……)
いままでずっと、この闇は月の力であると、そう思っていた。忌まれ、遠ざけられたその性質……それが感情を支配し、ほんとうの自分を、感情の源であるものを、覆い隠しているのだと。
源さえ知れば、そこから闇を切り離すことができる、取り除けるのだと、そう思っていた。
そうすることでやっと、その奥に押さえ込まれていた「ほんとうの」自分が現れると、……そしてそれだけは、決して否定されるものではないと。
そう、信じていた、の、に。
(嘘、だろ……)
慄然として、空を掻いた手を見る。
隠されているものなど、何もなかった。
表にあらわれるこの、闇色の渦が、自分自身のすべてだった。
この、突然膨れ上がり、抑えることのできない熾烈な怒りの感情そのものが。そして、胸の底に圧し掛かるような重い重い虚無感こそが。
他がするように、自分自身も、忌み遠ざけたいと思っていたもの、それこそが。
決して切り離すことのできない、ほんとうの、自分自身――
(そんなの……あるかよ……)
この闇に、感情に、たびたび自身のすべてが支配されているように感じてきた。湧き出し、呑み込み、そうして自分自身を見失ってしまっているのだと、そう思っていた。
けれど……そうだ、そうなのだ、
自我というもの、自分自身の意志というものが働いていると感じたとき、それは、そのとき支配していた感情がその場その場で選択していたにすぎなかったのだ。
そのために、選択は矛盾に満ち、しばしば、自分自身に振り回されるように感じながら生きてきた。
いつもばらばらだった。進んできた道も、これから進むべき道も、何もかもばらばらで、把握できない。
それらを整えるすべを知らない。基準を持たない。それを意識しようとすれば、ただ足元がぐらぐらと揺れ、ずぶずぶとぬかるんでいる事を知り、不安が煽られるばかり。
なだめるものも、静めるものも、自分は何も持っていない。
どうにもならない。無力感。そういったものが繰り返され、築かれてゆく、慢性的な虚無感。
――あるべき自我が、空っぽなために。
(なにも……ない――)
……当たり前のことだ。わかっていたことじゃないか。
忌み遠ざけられるもの、この闇は、自分自身であると。切り離せないものだと。
いまさら何を求めた?
もう求めるのをやめようと……希望を見ても裏切られるばかりだと、分かっていたはずなのに、なぜ今更――?
今までだって、何度もそれを繰り返してきたじゃないか。
求めて、裏切られて。
何度も、何度も、同じことばかりを繰り返してきたじゃないか。
(そうだ、何度も、何度も、なんども……)
――ぼうやりと。
意識の端に、闇の中に、浮かび上がるものがあった。
目。それは、目だった。
よく知った目、それは、幼いキレスがいつも求めていたものだ。
キレスはその目をもっとよく見たいと望んだ。……けれど、そうした途端、その目はふっと背けられ、また闇に溶けてゆく。
次には後ろに、また目を捉える。見つめようとすると、逸らされ、消える。上に、下に、右に左に、それはどこにでも現れて、捉えようとするたびふいと逃れ、消えてゆく。見つめることは決して叶わない。
戸惑いが広がる。幼い、小さなその胸いっぱいに。
求めたものが、手に入れられない。何度やっても、叶わない。
作品名:睡蓮の書 三、月の章 作家名:文目ゆうき