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文目ゆうき
文目ゆうき
novelistID. 59247
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睡蓮の書 三、月の章

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下・かけら・1、からっぽ



 創世の王ウシル。世界の形を定めたもの。
 彼はまた、ひとが「個」として存在することを、教えた人物である。
 薄ぼんやりとした境のないものを、はっきりと分け、そうして同じものを共有する別々の存在になったものたちが、相互に影響しあうこと。曖昧にともり、広がって消えていた感覚を、自身の中だけに強くとどめ、ときにそれを外に生じさせること――そうした選択をする「意思」を知らせ、またそれによって、新たに別の「個」を自ら生み出せることを教えた。
 ひとのそうした姿は、「生」と呼ばれた。 
 生の始まり。――しかし、ウシルが同時にその終わりをも定めたと知るのは、しばらく後のことだった。
 生の終わり、即ち「死」。この恐ろしい概念の、はじめの犠牲者は、王ウシル自身の初めの妻であった。
 ハピの、母親である。
 幸福な時の、突然の断絶。降りかかる圧倒的な暴力。その「死」というものの衝撃は大きかった。ハピの母の死は、人々を激しい不安の渦へと落とし込んだ。
 とりわけ、幼いハピにとってその不安や恐怖はたとえようもないほど大きく、その心を圧し続けた。
 幾年か経つと、人々は死への恐怖の記憶をあいまいにしていった。しかしそうしたときにも、ハピの中には鮮明に、そして継続的に、死というもの、その影が、くっきりと横たわっていた。死という概念を生み出した父を恨むよりも、ただ母親という最も身近な、離れがたいものの突然の喪失に、ぽっかりと空になった心を、埋めるものが、何もなかったのだった。
 そこへ、継母の娘、アンプの噂が届く。
 「死」を体現しているといわれた、少女。
 初めて目にしたとき、人々がする噂から想像されるような、陰気さよりは、歳の割りにひどく幼げで未熟なようすが印象的だった。
 継母と義弟が中央に建てた神殿に移るというとき、アンプはひとりこの神殿に残され、そうしてその機会に、ハピは初めて……ほとんど無意識に、アンプに近づいた。
 死というもの。それがいったい、何なのか。
 憎しみや否定のためではなく、ただ知りたかった。母を奪ったもの、その正体を、彼は、知らねばならないと、そう思った。
 アンプに触れ、知ったもの。――それは、威嚇してくるような、呑み込むような、恐れを引き出すものとは、まるで違っていた。少なくとも、ハピにとってはそうだった。
 それは、いま目に映す多くのものを、見えなくする、闇だった。
 穢れなき闇。それはアンプ自身がそうであるとおり、純粋で、何者の侵入も許すことのない、生まれながらの、闇。
 そして、それに触れたとき初めて、ハピは、心が安らぐのを感じたのだった。
 どんな理屈でも説明できない。それは闇であるのに、まるで光のようにも感じられた。柔らかな、熱のないそれにくるまれ、見守られているような――それは、母の眼差しに似ていると、そう感じた。
 それは励ますものとは違った。道を示すようなそれではなかった。立ち上がる力を持たずにいる自分を、責めずにいること。急かさず、焦らさず、ただ今のままであってよいと認めること。
 哀しみを認め、それに沈み込むのを、許すこと。――そうした、闇だった。
 傍にあって、救われていたのは、ハピ自身だった。
 時を戻すか留めるか、そうして、心地よい思い出に浸るように。
 変化するものはなく。ただいつまでもこのままであれと願うこと。それは、この闇色が、純粋さが、穢されてしまわぬように。
 想いが、変化してしまわぬように。
 大切なものの姿かたちが、消えてなくなることのないように――
(……そうだ。それこそが、望み)
 ハピの望みは、自分自身の望みと等しい。
 現生命神ドサムは今、はっきりとそれを確かにした。
 目の前に力を戻した「月」を認めたその瞬間から、千年前を生きたハピの意思が、確かになって現れはじめた。ドサムはハピに意識を譲り、その淵からしばらく、彼の心の動きを捉えていた。
 この、紺青の宝珠――ハピの意思――を手にしたときから、どこか近いものを感じていた。それは、生命神の“力”とは違うところにある。
 ハピの、アンプへの想い。そこから生じる「願い」。
 大切なものの姿をそこに留めるために。
 形を失ったものを、本当に失ってしまわないために。
 もう一度、取り戻し、そして、留めておきたい。
 ――死者の蘇生。ドサムにとって、その目的は、使命のようなものだった。
 はじめはその身体の一部を、たとえ消失していても、元のとおり戻す力だった。
 その力は生命神の特性としてあり、ドサムはそれを幼いころから強く持っていた。成神する前からそうした力を持つ例はなく、ケセルイムハトの瞳がなくとも――実際には、その瞳のための力であると考えられているが――彼の存在が特別に尊敬されたのは当然であったのだろう。
 しかし歴代の生命神がそうであったように、それは形を戻すに留まり、息を吹き返すこととは違った。欠けた肉体の一部を――たとえば失った手足を戻すといった場合に用いられたが、生きていることが前提だった。身体の形全てを元のとおりに戻すものはまずいなかったが、それができたところで、呼吸など自発的な生命活動がなければ、結局肉体は腐敗してしまう。
 肉体の腐敗を止める方法は存在した。それは、神殿地上部の正門に続く部屋、そこにある創造物と同じように、その肉体の核に精霊を据えることだった。どちらかといえば、精霊に肉体を与えるのと同じ発想であるこのやり方は、しかし肉体の状態を保持することはできても、それ以上は……体を動かすといったことはもちろん、目を開くことさえ実現できなかった。
 転機は十年前――「月」の力を手に入れたときに訪れた。
 聖鳥の羽とともに持ち帰った「それ」に触れた瞬間、ドサムの中で何かが目覚めた。
 それは、意識のずっと奥にある、見えない扉が開け放たれたような感覚だった。
 ドサムは突き動かされるように、人間界に向かった。この神殿内でなければどこでも良かったのだろう、ただじっとしていられなかった。胸が騒ぎ、何かが暴れだそうとするような不安と同時に、視界が広がるような清々しい感覚、それらが入り混じって、自身を急き立てるようだった。
 そのとき人間界は神々の戦の影響で世界の均衡が崩され、荒れ果てていた。向きの定まらない激しい風、叩きつける雨、氾濫する川、崩れる岸壁――そこでドサムは彼に付き従うデヌタに守られながら、死をかぎつけるように一人の少女を探し当てた。崩れた岩々の陰で水没していたその体を引き上げさせ、力を用いる。
 ドサムはその「力」を試したかった。その対象が敵か味方かは大きな問題でなかった。かといって、多くの神々の期待の目にさらされる場ですることを望まなかった。こうした情動を覚えたのは、生まれて初めてだった。
 新しく彼の中で目覚めた「力」。それは彼の大いなる奇跡の、出発点だった。
 自発的な呼吸。精霊を用いることなく、その身体は自ら呼吸し、生命活動を維持し続ける。
 一度死んだものを、確かに蘇らせること。――それを、ドサムはついに、実現したのだ。