睡蓮の書 三、月の章
月を魔性と呼び、太陽神側に渡してはならないと力強く命じたあの時。それは、あの得体の知れない力が脅威となることを恐れたためなのだと、デヌタだけではない、北の神々はみなそう捉えていただろう。
しかし、いまの生命神の様子を見ると、そうではなく、「欲した」のではないか。そう思える。
それも、月の力だけではなく、その、存在自体を。
(まるで、千年前の物語の、続きだ)
月の姫アンプを愛したという、初代生命神ハピ。
あの宝珠……冥界に封じられていたという生命神の「神性」は、千年前を生きたハピの意思そのものを意味していたのではないか。
それが現生命神ドサムの姿を借りて、「今」を生きているのだとしたら。
(それをさせたのは、『月』の力か……)
やはり、「月」は重要な「鍵」――。
いまドサムのその身をハピが借りているのだとして、何も問題はない。それどころか、その事実こそが証明となる。
彼らの目指す道が、選択が、これで間違っていないのだと。
そしておそらく、初代のハピ自身も、同じ道を求めているに違いない。
そう、今目の前で、生命神が「ハピ」として、「アンプ」に語りかける様子。それは、現生命神ドサムが、そしてデヌタを含め北の神々全てが望む、未来の形。
月の力と、そして、開かれた異界の門。――これらが生む、希望の形。
門をくぐった「意思」――人の「生」が、再びこの世によみがえること……。
「……!?」
低く、わずかに響く「音」。デヌタは身を引き締め、あたりを探る。
どこから響くのか。何の「力」なのか――しかしそれがあまりにも遠すぎるのか、生じる方向すら一向につかめない。
(……なんだ、いったい)
息をつめ、注意深く周囲を探る。意識を順に広げ、正体をつかもうと神経を研ぎ澄ませる。……だが、それらしいものを見つけることはできず、ただ響きだけが変わらず届く。
(プタハ……気づいているだろうな)
神々のいる位置が漠然とつかめたが、どこも争いを起こしているふうではなかった。湧き上がる焦りの色。原因を探りに出るべきか、しかし――。
そのとき、彼の主である生命神ドサムが、ふっと月神から意識を離した。
そして、次の瞬間。
「な……」
側近デヌタは、目を見開きそれを映しだす。
闇色の天井、開かれた冥府の門がある、まさにその場所から、
太い木の幹ほどの水流が、突然滝のように降り注いだのだ。
生命神ドサムは素早く月神と自身を包み込む結界を張ったようだった。しかし、直後に注いだ水流の奥から、その結界がはじけて失われる音――。
(……!)
信じられない、とデヌタは思った。生命神がその持つ力の性質のひとつである水を制御できなかったなど。……しかしその力は確かに、あまりにも唐突だった。恥ずべきことに側近である自分は一切反応できなかったのだ。そして生命神はそれまでずっと月神に意識を傾けていたのだ、通常通りの力を使えなくても当然だったろう。
かたまりとなって天から墜落した水は、地に着いてもなお、意思を持った生物のように地を這いうねり狂い、再び生命神に襲い掛かろうとしていた。
デヌタは生命神の無事を確認すると、水神としての彼の力を示すべく、その腕を水流へと突き出す。彼の瞳の淡い青色が、清らかな水のように透き通る。四属の長が、同属のものを威圧するあの瞳――精霊たちはただそれだけで、大いなる力の主への怖れで満たされ、動きを止める……はずだった。しかし、
「なに……っ」
おかしい。デヌタははっきりと感じた。それは、水ではない。見た目は水に違いないのに、長としての威が通じないどころか、感覚で「水」を知ることができない。当然、彼の意志も一切通じない。
(幻術か……!?)
デヌタは天井を見上げ、それから素早く辺りに目を走らせる。
「セト!!」
二重の扉で閉ざすこの場の「門番」である男を呼びながら、デヌタは自身の力を示す。この水が幻であれば、どこかにその力の主がいるはずだ。おそらくこの幻影で意識を引こうとしているか、または幻影そのものに身を隠しているに違いない。
(逃れられると、思うな)
デヌタの意志に応え、生み出された多量の水が渦を巻き、この「場」全体を駆け巡る。そうして外側から追い詰めるように、幻の水流に現実の水流が攻め寄せ、呑み込もうとしていた。幻を暴こうとするように大きく立ち上がり、それは次々と勢いをもって雪崩れ込む!
……しかし次の出来事を、誰が想像しただろう。
デヌタが起こした水流は、幻と見られた先の水流に触れた途端、しゅうううう、と音を立て次々と気化していったのだ。それはまるで、水が熱された金属に触れたときのように。
あまりにも不可解な出来事に絶句する。これは幻などではない、では、いったい何なのか……!?
「なん、だ、これは……!」
扉を開き現れたセトが声を上げる。視界はすっかり蒸気の白に覆い尽くされていた。
「敵か――!」
開かれた「場」の扉。空気が流れを生み、白い蒸気が外へと流れ出ると、天からの水流は再び大きくうねり、一気に扉に向かい始めた。
セトはその手に黒曜の大剣を握る。水流が競り上がり、セトを呑み込むかと思われたその瞬間、剣は大きくなぎ払われ、水はまるで固定した形を持っていたかのように、まっすぐに切り裂かれた。
効果あった――そう思われた直後、
「ぐあっ!」
形を崩し、玉のようになって降り注いだ水滴に、セトは悲鳴をあげた。水を浴びたはずなのに、肌が焼けるようだ。
「くっ……」
セトは膝を折り、地に手を着くとすぐさま岩を立ち上がらせ扉を塞いだ。この得体の知れない「力」、それが水であろうと火であろうと、厚い岩石を打ち破るのは容易ではない。それでも念を入れ、セトは二重の扉の間の小部屋ほどの厚みを加えていった。
水流は突然表れた岩石に激しく衝突し、そのまま散り去るかと思われた――が、岩に弾かれた水滴となったそれは何かの意思でひきつけられるように再び岩にぶつかり、それを繰り返すうちに火花が生じると、やがて――信じられないことに、岩に火がつき、炎を上げて燃え始めた。
まるで紙でできたかのように燃え上がり、そしてまた、氷か何かのようにどろりと融けてゆく。大地神であるセトが生み出した岩それこそが幻か何かなのではないかと錯覚されるほど、不可解な、そして、異様な光景だった。
「――灼熱の、水……」
デヌタが思わず声を漏らす。それは、死者の国にあると伝えられるもの。この世の理を超えた、矛盾の象徴でもある。
(まさか、本当にあの『門』の向こう側から注いだとでも言うのか……!)
水流はまるで彼らの様子を嘲笑うように、大きなうねりを繰り返し、あっという間に外界へと流れ出てしまった。
あまりのことに追撃すら忘れ立ち尽くしていたデヌタは、はっと彼の主を振り返る。
生命神ドサムは無事だった。結界が破られ、その後も襲ったあの水流はただの威嚇だったのか……?
「ドサム様――」
指示を仰ごうと声を上げる。が、しかし、ドサムはその声に応えない。宝珠の青に照らされたまま、ひどく圧倒されたというようにただ茫然と立ち、ぴくりとも動く様子がなかった。
作品名:睡蓮の書 三、月の章 作家名:文目ゆうき