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文目ゆうき
文目ゆうき
novelistID. 59247
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睡蓮の書 三、月の章

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 温度を感じさせないぬくもり。それは身体と同じ温度をした、水の中。
 キレスは今、そのずっと深いところにいるようだった。
 そこへ、遠く、高い位置にある水面から、くぐもり響く音。
(これは……アンプ)
 朦朧とした意識、夢うつつな感覚。
 そのなかに遠くから注ぐ、感情。よろこびのそれ。
 あの瞬間――生命神が青い球体を表した瞬間に、自分の意識とほぼ同じところに、あいまいに混ざり合っていた月の姫アンプの、その「個」の意識が、強く引きつけられ、そうして……それとはまるで反対に、キレス自身の意識は、こうして深い深い淵へと押しやられていった。
 じわじわと膨れ上がり、染め上げていったアンプの意思。引き寄せる声、寄せられる意思。二つは強く結びつき、表に向かう流れを作る。その流れが、異物を排するようにキレスの意思を奥へと押し込めた。
 排する力が強いというだけではなかった。キレスはその流れに逆らうほどの「何か」を、もっていなかった。
(……)
 “お前の名はキレスだ、そうだろ――”
 あのときケオルが何を言いたかったのか、今ははっきりと分かる。
 同じだと思っていたもの、混ざり合って境のなかったものが、綺麗に分けられ、片方はあちらに、そしてもう一方は、こちらにある。
 アンプがハピに抱いていた心を、自分は確かに知ることができる、けれど、それは自分のものではない。湧き出したそれらの感情は、自身の感覚を借りた、アンプのもの。キレスが自ら想い、そうした感情を湧き出させたのとは、違うのだ。
(俺は、アンプじゃない)
 ただ良く似た性質を共有していたというだけ。そのために、まるでどこまでも境なく同じであると、錯覚していただけ。なにもかもがまったく同じというわけではない。――そんなことすら、こうして外から無理やり分けられるまでは、意識できないでいた。
 今、千年前のハピに呼ばれ、月の姫アンプはキレスの意識の表面に引き出されている。いや、それはもう、キレスの意識ではない。ただキレスの身体に宿った二つの人格のうち、月の姫のものだけが、今は認められているのだった。
 裏側に押し込まれたキレスの意思は、表にあらわすことを許されない。そうして、ここにじっと閉じられている。
 このまま抵抗しなければ、いつの間にかキレス自身であったこの器が、アンプのものになり、キレスの意識は底のほうに閉じられたままか、もしかしたら、いつのまにかすっかり消えてなくなるかもしれない。
 キレスであったものが、アンプのものになる。そうして、キレス自身、その意思は、なくなってしまう。
 それが、死でなければ、なんだろう。 
(……もう、いい。そんなことは、どうでも)
 キレスは目を閉じた。不自由を感じるわけではない。また、表面のあの、冷たく、煩く、眩しい、不快なところへと戻る理由も、ない。
 眠りに落ちようとするあの心地よい瞬間が、じんわりとキレスを包み込んでいた。
 このまま逆らうことなく意識を閉じることができれば、これほど幸福なことはない。
 何もかもを脱ぎ捨てて。負う責もなく、進むべき道も、作り上げたものも、つながりも、煩わしい何もかもをなくして。
 はじめのはじめ、何もない状態に戻ろうとするような。
 この安らぎをたとえるならば、生まれる前。母の胎内にあったとき、その記憶がもしあるならば、こんなふうだったろうか。
(記憶……)
 かすかに。ほんのかすかに、引っ掛かりを覚える。
 “お前の記憶は、どこなんだ――!”
(『どこ』……?)
 ふう、と、消えかけた自我の灯が再び、ともる。
 そうだ、今まで千年前の――月の姫アンプの記憶を鮮明にし、その犯した過ちが、自身の犯したもののように感じていた。
 耳に付き、心を縛り付けて離そうとしない、地属の長のあの台詞。“お前さえ、いなければ”――その言葉が自身に向けられているものだと錯覚していた。
 魔性と呼ばれた月の、人の心を捉え、歪ませ、恐れさせ、そうして死へと向かわせる性質。それそのものが、まるでそっくり自分自身であると思っていた。
 それらが千年前の月の姫アンプの所業であり、その記憶であり、
 月属という特異な性質を表しているに過ぎないとしたら、
 そうしたものを切り離した「自分自身」は、いったいどこにあるのか。
(ほんとうの……)
 キレスはゆっくりと目を開く。
 この身を包む生暖かい闇は、水底の泥のようにゆらゆらと、一部溶け出すようにしてたゆたう。その下には、まだずっと深く溜まっているのだろう。
 ほんのわずか、闇をそうと識別させる薄明るい光のようなものが、上層に静かに満ちている。その一番上の表面、水面に、今はアンプの意識がある。
 キレスは闇色の泥の向こう、足元にあるよりずっと底の方に、目を凝らす。これらはいつもこうして、胸のうちに深く深く堆積している。
 底がどれだけ遠いのか、近いのか、分からない。いつも、感情が高ぶれば、途端に嵩を増して湧き上がり、渦を巻いて水面を突き抜け、周りの何もかもを呑み込んでゆく。鎮めるすべもなく、自身からそれがあふれ出、まるでこの身もそこに溶け込んで一緒になってばらばらに散らかる感覚を、キレスは何度も何度も繰り返し味わってきた。
 この、闇色の、奥。そこには、何があるのだろう……?
 感情が高ぶれば渦を起こす、闇の量をより増してゆく、その源。
 それが、この奥にあるはずだ。
 感情を生む、源。それが自分自身なのではないか。
 幾年も、重ねて生み出し続けた泥で覆い隠してしまっている、ほんとうの自分。
 その姿を。
 ほんとうの形を。
 探し出さねばならない。
 他の何でもない、ただ純粋に自分自身であるというそれを。
 知らぬままでは、いられない。
(この、奥に――)
 そこには、幼い自分自身の記憶があるだろうか……? 母親の、父親の、あたたかな思い出が。
 覆い尽くし、見えなくなってしまったもの。その形を、
 ほんのわずかでも、掴むために。
 ……キレスは、手を伸ばす。

      *

(プタハ……報告が遅いな)
 水神デヌタは扉を振り返る。しかし、二重に閉じられたその扉に近づくひとの気配は、一切感じられなかった。
 先ほど地下で起こされた、一瞬の力の放出。それを、デヌタはこの地下の「場」――冥府の門のある場所――で、捉えていた。
(ドサム様は気づかれているだろうか)
 デヌタは青い宝珠のほかには何一つ光源を持たないこの空間の、中心にある、彼の主を映す。
 いつもの主であれば、あの「力」に気づかぬことなどありえない。……しかし、今は。
 生命神ドサムは、青い宝珠を浮かべたその向こう、透明な膜に包まれ眠るようにしてある月神の姿をじっと捉えている。伸ばした腕は透明な膜に触れ、それを撫でるような仕草は、まるで声なき声で語りかけているようにも見えた。
 この場に封じていた「力」が解き放たれ、欠いていたそれを戻した月神。それが目の前に現れた瞬間から、主の様子は、わずかに変化したようだった。