睡蓮の書 三、月の章
「――おれは、戦う」
不意に、ラアが声をした。
決して大きくはない声、それは低くしかし明瞭に、確かな強い意志をもって響く。
「王の座を譲ったりなんかしない。……ぜったいに」
闇の奥をじっと見据えるラアの瞳には、金の火がちらと灯されていた。
*
北の技神ネイトは、地下の西、個室の並ぶ一郭へと向かっていた。
地上部で、侵入した敵が他にないか確認していたネイトは、先ほど地下から同属の――火属の力の反応を捉えた。地下部は彼女の同属上位である輝神プタハが警戒していたはずだ。敵と遭遇したのではないか――そう考えたネイトは、すぐにそこへ向かおうとした。
しかし地下に降りたとたん、そうした力の衝突を感じられなくなってしまった。
あの一瞬で敵を仕留めたのだろうか? ……ありえない話ではない。
プタハは火属の第一級神、輝神「ヘル」の称号を持つ。火属の長に次ぐ力を誇る彼は、しかし実際、その実力が先の中央での衝突で一度命をなくした老神メリトゥより劣るものでは決してなく、むしろ同属にはその差が明らかなほどだった。しかしメリトゥが、「二重の称号」の発生からプタハが成神を迎えるまでのわずかな間に、北の神々の中では少数である火属の生き残りの最年長者として、長の称号を得、それを手放そうとしなかったのだった。
プタハはまた、――ほとんどの場合に、回りくどいやり方を嫌って力で解決してきた彼にしては珍しく――その地位を表立って欲するような態度を見せなかった。しかしプタハのメリトゥに対する態度は、同じ属性の上位神に対する敬意を伴っているとは言いがたいものであり、そこからも、彼の考えは明らかだった。……すなわちメリトゥは長くその地位には留まれないだろうと、そう踏んでいたのだ。主張するまでもないことだったのだ。
事実、彼の予想は的中し、ひと段落すれば間違いなく、プタハは火属の長へとその位を引き上げられるに違いない。
火属の多くは目に見える力の強弱を重視する。しかしこの神殿のほとんどを占める地属の神々にとっては、年を重ねたものほど敬うべきと考えられ、こうした力の逆転した上下関係にもあまり違和感を覚えないどころか、当然と捉えていたことだろう。が、同じ火属の第二級神であるネイトにとっては、やっと正しい序列に戻されたと思えるところであった。
(一撃で敵を退けたか、倒したか――)
そうでなければ、このように静かであるはずがない。
引き返そうか、そう考えたときだった。彼女が向かおうとしていた、最も奥の廊下へとつながるひとつの道の先から、同属の――それはおそらくプタハの――気配を感じ取る。
ネイトが立ち止まるとしばらくして、角を曲がり姿を現したのはやはり、プタハだった。
「敵がいたのですか」
ネイトがたずねる。プタハが立ち止まる。……しかし、返事がない。
「……プタハ様?」
怪訝そうにもう一度声したネイトは、次の瞬間、さっと地を蹴り距離をとると、その手に黄金の弓を握っていた。
「いや、そうじゃない……ネイト」
プタハが言う。ネイトが警戒したのは、人心を操る術や姿を借る術である可能性を考えたためであり、プタハもそれに気づいていた。
「少し、混乱していた……。――ここは確認した。地上部は終わったか?」
「プタハ様、失礼ながら」ネイトは構えを解きつつも、武器を手元に残したまま、たずねた。「私は、同属の力が放たれたのを捉え、ここにやってまいりました。敵が放ったものでなければ、プタハ様がなされたのですか」
するとプタハは、目を見開き眉を寄せる。まるで覚えがないというように。
そうしてこめかみに手を当て、記憶を探り始めた。
「敵の侵入がないか、確認していた」
「ええ、そうです」
ネイトがうなずく。
「……しかし――敵の姿はなかった」
「『力』には気づかれなかったのですか?」
「……」
プタハの表情が、次第に険しくなってゆく。
そんなものは、記憶にはない――プタハは考える。しかしネイトの言葉を考えれば、それは矛盾である。そしてそれこそが、自身が敵と遭遇した証となるのではないか――?
「失礼します」
ネイトはプタハの現れた廊下の角を曲がり、奥へと進んだ。
それに続くプタハは未だ混乱の中にあった。――信じられない、まさかという思いがぬぐいきれない、しかし――
「……!!」
いくつかの個室へと続く道が、枝のように分かれたそのひとつ。
そこに、ネイトの捉えた力、それが事実「起こされた」ものであるという証が、確かにあったのだ。
いくつか並ぶ個室の、手前側のひとつ。そこに、焼け焦げた再生者の遺体が数体。そして、爆風によって砕かれた扉の残骸がある。
やはり、とネイトは表情を硬くする。――敵が侵入している。あの力は、敵の手によるものだったのだ。
まさかと考えていたことを、現実として突きつけられたプタハは、半ば苛立ち混じりにネイトを横切ると、焦げた床を踏みつけて部屋に入り、内部を見た。
玄関と部屋を仕切る壁が崩され、足元には瓦礫が散らばっている。その、仕切りの向こうの部屋は、床の敷物も壁掛けも何もかもが焼け焦げ、ほとんど焼失している。部屋の中央には、背もたれのある木製の椅子が置かれていたのだろう、しかしその面影をわずかに伝えるばかりである。
その、焼けて色と形をすっかり変えてしまった椅子のまえに、横たわる少女の姿があった。
プタハを追うように部屋へと足を踏み入れたネイトは、その光景に息を呑むと、あまりの惨状に震える手で口元を覆った。
この椅子に腰掛けていたのだろう少女は、首から上を焼かれていた。
人か人形か区別が付かぬほど、それは真っ黒な炭の塊に、成り果ててしまっていた。
首から下は普段と変わらない。その差がむしろ残虐さをより強く印象付けていた。
「この人は……」
ネイトが何かを言いかけたが、あまりのことに言葉が続かなかった。プタハはその先を察した様子で、無言でうなずく。
この光景から窺い知れることは二つ。すなわち――これらを引き起こした「力」の主は、強力な炎の使い手であるということ。それは火属の長でなければ、太陽神であろうと推測された。……そうでなければ、第一級という高位にあるプタハが、このように容易に意識を操作されるはずなどない。逆に言えば、同属上位の圧倒的な力をもって下位を制した、そのようにしか考えられなかった。
そしてもうひとつは――この少女はもう二度とよみがえることはない、つまり、「再生者」にすらなれない、ということだった。
*
鼓動に似た、青の揺らぎ。
天と地を撫でるように、柔らかに灯るそれは、声なき声で、呼びかける。
“アンプよ、おいで。お前はもう、ひとりではない”
ハピ兄様……。
兄様の奥にある、暗くて底が見えないもの。
私の持っているものと、よく似てる。
母様も、ホルアクティ兄様も、だあれも他には持っていない。
同じだと嬉しい。同じだと、心地いい。
だからそれがずっと続いたらいい。
もういちど、そしてここからずっと。ずっと、ずっと一緒に。
ひとりは、とても、さみしいから――。
……柔らかな闇。
作品名:睡蓮の書 三、月の章 作家名:文目ゆうき