睡蓮の書 三、月の章
三、月の章・序
キレスは夢を見ていた。
彼と同じ、紫水晶の双眸を持つ少女の、夢。
印象的な瞳と、整った顔立ち。人々は口を揃えてそれを称えた。
「きっと美しい娘になるだろう」、「将来が楽しみだ」と。
しかし、母親は浮かない様子だった。
娘は、上の子とまるで違っていた。表情が乏しく、笑顔を浮かべることがほとんどない。覇気がないようすで、反応も鈍い。ただただ奇妙で仕方がない。
あるとき、抱いた腕の中から娘が、熱心に母の顔を見つめる様子をみせた。
それは、これまで見せることのなかった表情――生気のある目、何かに関心を寄せる様子だった。
幼児“らしい”その様子。可愛らしい我が子。母は応えるように微笑み、顔をよせる。娘は小さな手を、求めるように伸ばす。
直後、娘の指が母の眼を突いた。
事故であろうと思った、しかしもう一方の眼に伸ばされた娘の指が、眼球をえぐるように掴みかかる。
母の悲鳴、筋を描く鮮血。
とたんに、娘の表情がぱっと花を開いたように明るくなる。
その紫水晶が映すものは、母の顔ではなかった。
自身の小さな指先を染めた、赤の色。
初めてみせた、心からの笑顔。うっとりと、心の底から欲していたものを前にしたように。
母は娘を見下ろし、慄然とその様子を映す。
――そうして、母親は娘を忌避するようになった。
娘の様子は噂となって人々に広まり、取り巻く環境は一変した。人々は避けるように、娘から距離をとるようになった。
(どうしてなのか、わからない……)
言葉を話せる年齢になっても、アンプは以前と変わらず、ぼんやりと宙を見て、言葉かけにも反応は鈍く、発語も少なく、表情も乏しいまま、ただ容姿ばかりは、その歳相応に成長していった。
太陽の下に出ても、暗がりの中にあるように陰気で、瞳を半ばまぶたで覆い、力のない顔つきをして、黒髪を長く肩から垂らし、ひっそりとどこかに佇んでいた。美しい瞳の紫水晶も、洞窟の影にあるように、ほとんど輝きを失って、ただ僅かな動きを知らせるように、時折ギラリと闇の中から灯った。そうした様子が、人々に噂を思い起こさせ、ますます人を遠ざけた。
あるとき、娘に近づいた男があった。
娘は確かに美しかった。まとう影が物憂げな様子にも捉えられ、すると、そうした美しさにいっそう拍車をかけているとも思われた。
男は娘を欲した。そして、――娘は、その男を、殺したのだった。
血だまりの中、娘は、まるでそれが茜で美しく染めあげた赤い絨毯かなにかのように、その身を浸して座り込む。そして愛でるように触れ、うっとりと目を細めていた。
「こんなに、たくさん」
駆けつけたものが慄き声を上げると、娘はにっこりと、幸福そうな笑みを向け、言った。
「きれいなもの……、だいすき」
――
ひゅ、と息を呑み、キレスは目を覚ます。
自分が今、「だれ」であるのかわからない。それほど鮮明に、夢の中の少女の感覚が、キレスの胸を占めていた。
赤い色が、好きだった。
キレスは首元を飾る紅玉髄に触れる。そうだ、この色合いに惹かれてやまない。ずっと、はじめから。
そして、流れ出る赤。――血の、色。
(ああ……)
目を閉じる。引き寄せられる、別の「夢」。
そうだ、何度も何度も夢に見た。自分自身が、血だまりの中にある様子を。
あの、えもいわれぬ幸福感が、今、少女のものと重なって、ありありと胸によみがえる。
自分以外のいったい誰に、この感覚を知ることができるだろう。キレスはその夢を見るたび、そう思った。そしてそのことに、ひどく恐ろしさを覚え、自身の感覚そのものを何度も否定してきたのだった。
あの甘美な心地は、しかし夢の中だけではないのだと。何かが、頭の中で声を上げた。あれは、自身の内側から確かに湧き生じる、自然な感覚なのだ、と。
あの感覚、あれがほしくてたまらない。
あれが事実、心地よいのだ。
何より幸福と、思うのだ――。
作品名:睡蓮の書 三、月の章 作家名:文目ゆうき