睡蓮の書 三、月の章
この空間は無限であるかもしれない、広く有限であるかもしれないし、狭く有限であるのに壁などが見えてこないだけかもしれない。ケオルはしばらく歩いてみたが、壁にぶつかる様子はなかった。狭くはないと結論付けることもできるが、空間そのものがこちらの動きに応じて変形している可能性も無視できない。こうなると、感覚などあてにならない。残念ながら今の状態では、これ以上は確かめようがなかった。
次に、ここが「冥界」ドゥアトであるかどうかについて考えると、それはすぐさま否定された。
理由は、いま光を灯すために唱えた呪文だ。こうした簡単な呪文は、低位の精霊を借る術であるが、知属の特別な言葉で精霊を呼び寄せ使役するとき、精霊たちの居場所である聖域および精霊たちの名を指定する。精霊、つまりバーやアクなどと呼ばれるものたちは、冥界にも存在するとされているが、彼が今呼んだものは、地上にある聖域そして精霊の名だった。そもそも、冥界の地名も、そこにある精霊の名も、ほとんど知られていないのだ。
(生きた精霊が『冥府の門』を越えてくるわけ、ないな)
第一、ここが冥界であれば、自分は死んでいることになる。死んでいる、つまり神としての権限を失っているものが、呪文を唱えたところで形になるわけがないではないか。
では、ここは一体どこなのか。
今までのキレスの力の用い方から考えれば、あの瞬間、どこかに移動させられたと考えるのが妥当だ。が、闇に閉じられたこの空間が、地のずっと深いところにある場所だとして、それでも光を掲げれば足下の様子が映されるはずである。それがないということは、どこかの場所と言うより、あの瞬間キレス自身が作り出した空間であると考えたほうが、しっくりくる。
(空間の創造なんて――王レベルだろ……)
キレスはこの力が冥界《ドゥアト》に関わるとし、月の本質であると言った。
ドゥアト――はじめの王、ウシルの治める死者の国。ウシルは「彼自身より現れ出でる、言語と知性の創造主」と呼ばれ、その創造の力で理《ことわり》を違える異界、つまりドゥアトを開き、そこへ下ったという。
死者の葬送をその役とする「月」が、父であったウシルの“死者の王”としての力――二人の兄ハピとホルアクティには表れていないもの――を受けていることは、当然であるように思われた。
しかし創られた空間であるとしたら、ひとつ問題が残る。こことは別の空間に存在するはずの精霊が、どうやってこの場に呼び出されたのか?
(どこかに、繋がってる……かな)
どのように、そして、どこに……?
この場から脱し、一刻も早くキレスを見つけ出さねばならない。あるいはもう、北神に捕らわれているかもしれない。そうなれば、自分ひとりでは手に負えない。だが助けを呼ぶにしろ、ここを出ないことには話にならない。歩いて出ることができなければ文字術を使う他ないが、文字術で移動するには現在の場所の情報と移動先の方角、距離を示す必要があり、ここがどこだか分からない状況で用いることは不可能だ。
(不便だよな……知属の術ってやつは、いろいろと!)
――そのとき、頭上の、どこか遠いところから、何かが破裂するような音が響いた。
「……!」
ケオルは咄嗟に見上げ、音の正体を探ろうと目を凝らす。
するとそこに、闇空に輝く星のような……いや、星よりもずっと不安定に揺らぐような光を放つ、赤を見た。その煌きは、穀粒ほどの小さな穴から漏れている。
届く音のくぐもった具合から、それは手に届くような近距離にはないのだろうことが分かる。
(開かれた穴――外部との接点か!?)
そうとしか考えられない。この空間は、どうやらあの一点で外部と繋がっているらしい。
光はすぐに弱まり、そこから次には、聞き覚えのない男の声が聞こえてきた。
「……『マヘス=ペテハ』か……!」
驚きと警戒の混じる声色。その言葉を捉え、ケオルの目が大きく見開かれる。
(マヘス=ペテハ――『炎神』。……まさか)
それは続けて届いた別の声に、確信付けられた。
「wDt-mdw.in.i m rn n "wntyw", m wnwt rn n "wSmt-HAw-khftyw"」
「兄……」
かすかに届く、低く流れるような音。ケオルは思わず声を漏らす。
呼ばれた称号と、声。しかしそれだけではない。唱えられた言葉――知属の扱う特殊な語を用いながらも、知属の扱う術の公式に当てはまらないその構造。
神々は自身の力を用いるとき、集中するために形や儀式を定めることがある。よく目にするのは神権を表す杖を手にすることだが、言葉にするものもある。兄の言葉にもそういった意味合いがあるのだろうと、ケオルは思った。
問題はその内容である。
“時が「敵を粉砕するもの」の名をもてるとき、我「開くものたち」の名において命ず”
ケオルはもちろん、その言葉を「翻訳」することはできる。そこに示されたとおり、時間を幾つかに分けそれぞれ名がつけられることも、知っている。……しかし、それらの言葉がいったい「何を」示すのか、それがわからない。いったい、その「名」は何に与えられたものなのか。ケオルは、すぐには思い当たらなかった。
(まただ……)
兄は無意味なことを口にしない、それを知るからこそ広がる、無知の闇、それに対する恐れの感情。
じわりと胸を染め上げるそれを意識しながら、ケオルはじっと耳を澄ました。
「wnn irt.k simn m kkw zmAw r nHsy.k, khft rn.k mitt rn nTrw.pw」
“汝が名、其の神の名と等しくなりしときまで、汝が目は統合されし闇のうちに隠されたるべし”
続けて捉えた言葉の後半部分は、光、熱と共に眼に関する力を持つ火属らしい内容に感じられる。おそらく兄は、炎神となったからこそ知る情報を、こうして言葉にのせているのだろう。しかし前半部分は不可解としか言いようがない。相手は北神であるはずなのに、まるで名を知っているとでもいうような――。
(何なんだよ……)
分からない。そのことがケオルの不安をいっそう掻き立てる。
自分はまだ、兄を超えられない。知神となったのに、それを拒んだ兄に追いついてもいない。それに気付かされるたび覚える、焦燥感。胸が詰まる。自分の立つこの位置に、疑問を抱かずにはいられない。彼は今まで何度も、それを繰り返してきたのだった。
……気がつくと、辺りは沈黙に包まれ、頭上にきらめく赤い火も、見えなくなっていた。
いったい何が起こったのか。不安に駆られ、闇の中に目を凝らす。そうしてやっと、闇からわずかに浮いた色合いをした、ほんの小さな点をとらえたとき。
「ケオル」
遠くからフチアの少し抑えた声が届いた。
「兄貴……!」
反射的に上げた声は、どこか空虚に呑み込まれてゆく。ほっとしたと同時に、また別の不安が浮かぶ。自分の声は届いているだろうか、敵はもう退けたのだろうか。ケオルは小さく開かれた穴の向こうから届く兄の声だけを拾おうと、耳を澄ます。
「キレスの仕業か」
作品名:睡蓮の書 三、月の章 作家名:文目ゆうき