睡蓮の書 三、月の章
中・ほんとうの・2、あるものとないもの
金の瞳が大きく揺らいで、その姿をにじませる。
ラアの瞳は、列柱室を通り抜け中庭に姿を現した白衣の男神を、映していた。
気配でそうだと分かれば、間違えるはずなんてない。けれどこうしてその姿を目でとらえることでやっと、ほんとうにそうだと、確信できる。
「ヒキイ……」
――もう、会えないと、思っていた。
大切な存在。当たり前すぎて、いなくなるなんて思いもしなかったひと。自分のせいで失ってしまったのだと、そう思っていた。
けれど、今確かに目の前にいる。それは間違いなく、ヒキイだ。ラアのよく知る、ずっと傍にいてくれた、あのヒキイなのだ。
とたんに、ラアの胸に感情が怒涛のごとく流れ込む。
「ヒキイ! ほんとに……っ、ヒキイ……!」
それに突き動かされるように、ラアは駆けた。
そうして飛び込むラアを、ヒキイはその身で受け止める。
「ごめんね、ごめんね、おれ……!」
震える声。しがみつくように、ヒキイの背にまわした手が白い衣をぎゅうと握りしめる。ここにいる感触を確かにするように、そして、もうどこにも行ってしまわないように。
ヒキイは無言で、ラアのぼさぼさ髪の頭に触れた。成神前に、ちょうどこの場所でしたのと同じように……その大きな手の重みを、ラアは確かに感じる。
胸を満たす温かい思いに、ほころぶ表情。
帰ってきたんだ。ほんとうに、また一緒にいられるんだ……。
うれしい、うれしい、うれしい……!
「!?」
と、ラアは腕に小さな痛みが走るのを感じた。
思わず腕を解く。頭においたヒキイの手が、引き離すようにラアの頭をぐっと押し出した。
どうしたの、とラアはヒキイを見上げる。ヒキイの表情は、いつもラアを見つめているあの温かなものとは違った。身長差のためラアを見下ろすその黒い瞳は、どこか冷ややかに感じられた。
見慣れぬその表情に戸惑うラアだったが、しかしすぐに、今が戦の最中であることを思い起こし、ヒキイの態度に理由を見出した。
ラアは振り返り、そしてまた上空を見あげる。敵はまだそこにいるのだ。
その瞬間――すぐ傍から光と共に放たれた力が、ラアの身体を宙へと投げ出した。
「……っ」
あまりに突然で、抵抗しようという気さえ起こらなかった。
ヒキイのもつ火属の力が太陽神であるラアに与える影響など小さいものだったが、しかし反射的に防ぐこともできなかったのは、まさかとも思わなかったからだ。
ヒキイがその力で、自分を突き放そうとするなんて。
いつも、ただそばにいて見守ってくれていた、そんなヒキイが、自分を拒絶するなんて――。
「ラアっ……!?」
ヤナセの傍らで治療を施していたヒスカが悲鳴を上げる。
パシッ、と何かが上空ではじける音がした。
直後、北神より放たれた力が目前の瓦礫を砕いた。……結界が解かれている。そう、あまりにも予期し得なかった出来事に、ラアは結界を保持することすらできなくなっていた。
ラアは瓦礫の山に仰向けに転がったまま、茫然としていた。身体の痛みが意識の端にも上ってこなかった。心の動揺が大きすぎたのだ。
――この日、たったこれだけの時間に、一体どれだけのことがあったろう?
突然の敵襲、生命神の瞳、立ち上がる姉とその死、ヒキイとの再会そして――
どれもこれも、あまりにも唐突に、そして乱暴に、ラアのなかの“あたりまえ”を奪い去っていった。逆巻く激流に呑まれてどうすることも出来ず、ラアの心はからからに干上がって、ひび割れていた。希望を掴もうとすがることも、自分の運命を嘆くこともない、そんな気持ちさえ湧き上がらないほどに、からっぽだった。
これ以上の現実を、受け入れることなどできそうになかった。少しでも何かを感じようとすれば、崩れてなくなってしまうようだった。
放心状態にあったラアは、上空にある生命神ドサムの様子を捉えようともしない。
ドサムの腕が静かにラアへと向けられる。その指の先から生み出された水流が渦を巻き、それはみるみる鰐《ワニ》の姿を形作ると、尾を振りうねるように空中を猛進する……!
獰猛な動物はその透明な身体の中に眼光ばかりを鋭く光らせる。
天を下るすさまじい勢い。そしてあっという間にそれはラアの頭上に達し、敵を食らわんとその身を裂くほどの大口を開く――
仰向けになったまま動こうとしないラア。
はっと呑む息。声にならない悲鳴。
意識なく横たわるもの。わずかに察するも身動きひとつ取れないもの。
成すすべは、なかった。
――
――耳鳴りがしそうなほどの静寂。
どこからか、声がする。
「ホルアクティ」
それは、けして大きくない声。
「ラア・ホルアクティよ」
どこかずっと遠いところから届くように。
「お前が目にしたものは『何』だ? お前自身の目で捉えるもの、そのまことの姿は」
しかしまるですぐ横から聞こえているように。
「まことをもってそれを見よ、お前にはそれができる――そうだな、ラア」
そうして呼ばれた名に応えるように、ラアはゆっくりと瞬いた。
ラアの視界を覆うほどに接近した鰐の姿が、その大口を開いたまま空中でぴたりと動きを止めている。まるで釘付けられたように、宙に浮かぶ水晶の置物のように。
しかし奇妙なことに、星々の光を受けながらそれは、かすかにも揺らぐことをしない。
……時が、止まっていた。
ラアはどこかまだぼんやりとした様子で、この止められた時の中、ひとり意識をめぐらす。何もかも止まっているその様子をただ瞳の表面に映し出すうちに、あたりを広く覆う何かの力を捉えた。
じっと瞳を凝らす。そうしてこの場を包みこむようにある不可視の膜を認識する。膜の境は、ちょうどガラスの容器が光を屈折させるように、そこだけ歪みを見せている。
そこに僅か垣間見える闇。爪跡ほどのその闇に、ラアの意識は引き寄せられるように遠のく。
この感覚は初めてではなかった。過去に二度、月神キレスの力に触れたときに感じた……そしてまた、自身の奥底に眠っていた力が意思とは関係なくあふれ出したときにも感じる、あの肉体の浮遊感。異質な空間に閉じられたような、相反する感覚が次々と入れ替わり襲い来る奇妙な体感。
ここは、いったい“どこ”なのか。
肉体というものの無い、それなのに、感じられるものがある、矛盾だらけの場所。とても遠い、けれどひどく近いところにあるそこは。
その存在を知った途端、強く強くこちらを引き込むその場所は。
――月属の力は、同じ流れを作り、それを引き込む力なんですよ。
ふと脳裏をよぎる、カムアの言葉。
――知らないけど……分かります。
(ああ……)
ラアはそっと目を閉じた。
そうだ、知っている。自分はこれを、知っている。
わが身の奥底に宿る、もうひとつの本質。月属の性質に近いそれ。
それは、遠い異界に由来するもの。
見えないものを見る力。この世の理《ことわり》を呑み込む力。
異界への道を開く、力――。
それまで漠然と、どこか異質であるという認識を抱くばかりだったそれを、ラアはこのとき、はっきりと知った。
作品名:睡蓮の書 三、月の章 作家名:文目ゆうき