睡蓮の書 三、月の章
明知の光が広がる。それは今まで見えなかったものを浮かび上がらせ、また、見えていたものを違うものへと変えてゆく。
(そう、だ……そうなんだ……)
あるものと、ないもの。
ほんとうのこと。
それは、目を閉じてようく見れば、はっきりと分かるのだ。
目に見えるものによって、容易にごまかされてしまうことが、
目に映すことなく見れば、分かるのだ。
ただ、そうしていなかっただけ。事実を恐れて、そうしていなかっただけ。傷つくのを恐れて、そうしなかっただけ。
きゅと唇を噛んだラアの頬に、涙が一筋伝った。
そのしずくが、ぽたりと髪の間に消える。そして……、
――動き出す「時」。
見開かれる黄金。闇にじわりとにじむ光。
その瞳が空中の鰐を捉えると、次の瞬間、目の前の鰐の透明な形の内に光がきらめき、しゅ、と大気を裂く音を立て、透明な欠片が飛び散った。
宙に広がる、ガラス細工の菊花模様。やがてそれは闇空に溶けるようにして消え去る。
「……あ……っ」
その音に、硬く閉じていた目を開いたヒスカは、無事であったラアの姿に安堵する。
誰も、何も知らない、その「時」の間。
限られたものだけが知るその時間……。
そして、ラアはゆっくりと上体を起こし、傍に横たわる彼の友人へと腕を伸ばす。……上空のドサムに目もくれず。
「カムア……」
そっと友の手――焼けただれ白骨の覗くその手――に、自身のそれを重ねる。
(ごめんね)
やっと、やっと分かったのだ。ずっと自分のうちにあって、ながく知ることのなかったもの。中途半端に知った気になっては、不安で、ただ押さえ込もうとしていたもの。
はっきりと、分かった。それが、何であるかを。
もう怖れはしない。けれど。
(――……ごめんね)
ラアの瞳は、かすかに揺れていた。いつものような無邪気な輝きを消し去って、けれどそこには、弱々しく萎縮するようなものも、不安に溢れそうなものも見当たらない。もっと静かに、奥に確かに灯る強さがあった。
それから、ラアはその目を、静かに、閉じた。
きん、と音にならない何かが耳を圧し、場の空気がはっきりと見えない色を変えてゆく。大気をその身に強く引き付けてゆくラアの髪は逆立ち、その瞳は再び黄金の輝きを灯す。
先ほど暴走した時と同じラアの変化――しかし次の瞬間、ラアから放たれた力は、先ほどとは違い、確かな秩序をもっていた。
夜の闇に、ラアの瞳と同じ黄金色をした光。ラアの身体から生じた光の輪は波紋のように、けれどすばやく広がった。
水面を走る光のように、弾けて広がる花弁のように。きらきらと、みずみずしい光が中庭を走る。
それは、ぼろぼろになって横たわる仲間たちに注がれ、その傷をふさぎ、癒してゆく。
同時に、回廊の端に立つヒキイにも、また、石畳の上に横たわる炭となったラアの姉にも注がれると、ごおう、と唸るような音を立て、そのふたつの姿を消し去っていった。
意識を戻した神々は息を呑みその様子を見つめる。
(さよなら、姉さん)
黄金の火の粉を散らし、紙片を燃やすようにしてその形をなくしてゆく。
(さよなら、ヒキイ――)
しゃんしゃんと踊り出る黄金の粒。肉体を糧に、その輝きはいっそう美しく。
すべてを食んで無くすまで、金色の花はいくつもいくつも咲き誇る。
そうして、そこにあった大切な人の姿が、全部光になって消えてしまうのを、ラアはじっと、最後まで、両の瞳に映していた。
(ほんとに……さよなら)
もう、涙はいらない。
未熟な自分のせいで、失ってしまった大切な存在。
けれど、どんなに願っても、もう元に戻すことなどできはしない。
(――それで、いいんだ)
それが、自分自身の選んだことわり。
この本質が生み出す、ことわり。
自分は、自身の本質の求めるところに逆らわないのだと、決めたのだから。
……ラアが瞬き、瞳の光も消える。
それから、ラアはゆっくりと上空を見あげた。
生命神ドサムはそこにある。その眼は、今はもう閉じられている。
ラアは失った結界を戻そうとせず、またドサムも、攻撃をしようとはしなかった。
「あなたは――」
その言葉を発したのは、ドサムだった。その声は、心なしか、震えているようだった。
「なぜ、今私を妨げる……? 過去には私を助けた、その力で――」
憤りを隠すように、いや、より大きな困惑がそれを覆うように。
それを聞いたヤナセらはもちろん、北神らでさえ、その言葉が誰に向けられているのか分からなかった。その瞳が閉じられているために、何に向けて話されているのかが伝わらない。まさか、太陽神ラアではないだろう。
――しかし、それに応える声が、あった。
「『月』が、それを、求めるからだ」
それは思いがけないところから。
ヤナセが、そしてシエン、カナスも振り向く。この、中庭から神殿奥へと続く階段、そこに、声の主はあった。
「わたしは、その求めに応じたに過ぎない」
南の時神、ジョセフィールだった。
一体いつからそこにいたのか。生命神に何を答えたのか、なぜ応えたのか。
しかしジョセフィールはただ穏やかに、上空のドサムの姿を捉えているばかり。
ジョセフィールの放った言葉が、生命神ドサムにとってどのような意味を持つのか、その場にいる他の神々には知る由もない。
しばしの逡巡の後。ドサムは何かに気付いた様子で、すっと眉を寄せた。
そうして手にした杖をさっと振り上げる。
北神らの気配が消える。おそらく何らかの力を用い、強制的に退かせたのだろう。
それからわずかひと呼吸、ドサムはその場にとどまった。
ジョセフィールに何かを訴えようとしたのか……、しかしそれはついに言葉にされることはなく。
生命神ドサムは、姿を消し去った。
――暗闇と静けさばかりがその場を覆う。
張り詰めた空気に慣れてしまったかのように、緊張はすぐには解けなかった。
ラアは、未だ意識を戻すことなく横たわる友人カムアに、手を触れたまま、じっとうつむいていた。
「……ラア……」
まだずきずきと痛む身体を起こし、カナスが気遣うように声をかけた。声をかけずに、いられなかった。
一体なにが起こったのか、目の前で見た光景がどれもこれも繋がっていかない。
しかしただひとつ、彼女ははっきりと感じていた。
ラアの様子が、違っている。
ひと月前、北でヒキイの姿を見失った直後から、しばらく沈んでいた頃のラアとも違っていた。心をなくしたようにぼんやりとするのではなく、ただゆっくりと、時の流れをその身に刻むように。自身と対話し、奥深くをみつめるように。力強い静けさのうちにあった。
カナスの呼びかけに応えたラアは、顔を向けると、口元をゆっくりと広げて見せた。
笑顔。ただしラアが今まで見せたことのない、さみしい、さみしい笑顔だった。
「もう、いなかったんだ。あれは、ヒキイじゃ、なかったんだよ」
カナスの戸惑いを察したようにそう伝えると、次にはまた、傷ついた友人へと視線を落とし、独り言のように言った。
「姉さんも、ほんとはもう、とっくにいなかったんだね……」
その場の皆が、はっと息をつめる。
「そんなはず……!」
作品名:睡蓮の書 三、月の章 作家名:文目ゆうき