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文目ゆうき
文目ゆうき
novelistID. 59247
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睡蓮の書 三、月の章

INDEX|21ページ/53ページ|

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 一人であると思っていた。――だが、違った。
 振り返り捉えたその姿に驚愕する。ケオルが、そこに立っている。
 ここはあの場所からそんなに近かったか……? いや、そうではない。そんなはずはない、確かに――
「俺がここにいるのが、不思議なんだろう」キレスの困惑を知るように、ケオルは言う。「何度やっても同じだ」
「な……んで……」
「キレス、戻ろう」
 ケオルはキレスの疑問には答えず、手を差し伸べてきっぱりと、そう言った。
「……」
 キレスはきゅと目をすぼめ、差し出された手をしばらく見つめていた。それから、ゆっくりと、左手を差し出す。――赤く染まった、手だ。
「戻るって、何だよ」
 キレスの手は、ケオルの差し出した手をすり抜けてもっと上に、ケオルの目の前に、その視界を阻むように、掲げられた。
「俺は戻ってきたんだよ、ここに。他のどこにも、戻る場所なんかない」
 ケオルはキレスの血塗られた指の間から、キレスの目をじっと捉えたまま、しばらく黙っていた。
「――お前の記憶。戻ったって、言ったけど」そうして、その目を逸らすことなく、言った。「戻ってないんだな、本当には」
 まただ――キレスは思った。いつもそうだ。こいつはこうやって、そうだと言ったり、そうではないと言ったり、ころころ評価を変えて人を翻弄する。
 不快感が広がった理由はそれだけではない。まるでこちらを見透かしているというようなその言葉。
「知ったような口きくなよ……!」キレスは思わず声を上げていた。「俺は、この場所を知っている。思い出したんだよ……! 千年前のことも、何もかも、――俺がどう思っていたか、どう思われていたかも全部……!」
「それは『誰』の記憶だよ!?」ケオルが負けじと声を上げる。「お前じゃない。キレス、それは、『お前の』記憶じゃないだろ!!」
 ぐらり、意識が揺れる。キレスの脳裏でケオルの言葉がこだまする。
(俺の――記憶……じゃ、ない……?)
 何を言われているのか分からない。それは確かに、自分自身の記憶なのだ。
「『お前の記憶』は、『どこ』なんだ、キレス……!」
 追い討ちをかけるように浴びせられた言葉。
 どこにあるのか……? 何が?
 これは俺の――俺じゃなければ誰の……?
 けれどこんなにも確かな――
「キレス!」
 は、と我に返る。混乱、そして苛立ち、その繰り返し……。
 キレスは嫌悪を露にケオルを見据えた。――こいつのせいだ。こいつはいつだってそうだ、強引に自分のペースに持っていこうとする。何が楽しいのか、いつもそうやって人の心を揺さぶってばかりいる。
「しつこいんだよ、お前」
 低く、はき捨てるようにキレスは言った。
「何で俺にかまうわけ……? 楽しい? 何がほしいわけ?」
 厭な、耳障りな言葉の主。確かなもの、そうであったはずのものを、いつでも否定して、不安にさせる。
「そういやお前、月の本質がどうのとか、言ってたなあ。……気になるんだろ?」
 この不安を、同じように味わえばいい。キレスはもう一度、左腕を高く掲げてみせた。指を染める、乾いた赤。
「見せてやるよ。月属の力の“本質”――冥界《ドゥアト》の、闇を」
 長くもつれた黒髪がさっと宙を広がった。キレスの瞳が奥から紫の色を鮮やかにする。――先ほど、ウェルを殺したときと同じように。
「キレス!! お前の名はキレスだ、そうだろ……!」
 ケオルが声を張り上げる。しかしキレスの腕の先に生まれた闇はまたたく間に膨張し、ケオルの全身を覆った。
「千年前を生きたのは、お前じゃない……! ほんとうの、お前自身の記憶は、どこにあるんだよ……! キレ――」
 必死に声するケオルの姿と共に、その言葉は闇に呑まれ、一点に収縮すると、しずかに消え去った。
「……」
 染み広がりゆく静寂。
 望みどおり、ただ一人きりになったキレスは、空しく掲げていた左手を小さく握る。
 そうしてその手は無意識に、首もとを飾る紅いビーズ帯へと伸ばされた。

 ――“キ・レ・ス”……お前の名前、キレス。

 十年前、忘れ去っていた自身の名前を、このビーズ飾りから導き出したのは、ケオルだった。
 それから何度、この名で、その声で、呼ばれたか知れない。
 少年の頃、友達という言葉にすがりながらも、いつでも傍らにあった違和感。けれど、それらをぜんぶ記憶のせいにして。戻ればきっと、同じになれるのだと、そう信じていた。
 けれど、違った。――同じになど、なれるはずがなかったのだ。
 月の本質が、こうした闇であるがゆえに。その性質を負って生まれたがゆえに。
 それが、記憶を戻してわかった、ほんとうのこと――。