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文目ゆうき
文目ゆうき
novelistID. 59247
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睡蓮の書 三、月の章

INDEX|20ページ/53ページ|

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 ウェルは悲鳴を上げた。追い詰められ、停止していた思考が突き動かされる。この場を逃れるすべはないか――男の求めに応じるか、せめてそのふりを見せ、その間に打開策を見出せまいかと、考えた――そのとき。
 ……男の声が突然、止んだ。
 呪文が途絶え、ウェルを襲う力も収められる。
 床にうずくまっていたウェルは、恐る恐る顔を上げた。
 薄闇の奥に見える影。知属の男の後ろに、もうひとつ。眠っていたはずの月が、意識を戻したのだ。
(しまった……!)
 そうだ、知属の男の姿を暴いたとき、彼が月の耳元で熱心に唱えていたそれは、睡眠の術を解く呪文だったのだ。
 もうおしまいだ。殺される――ウェルは思った。……しかししばらくすると、ウェルは二人の男の間にある奇妙な空気に気づいた。
 月は、こちらには目もくれず、救出に来ただろう仲間の男を気だるげに見つめると、一言、
「……なんなの、お前」
 と、ほとんど何の感情も示さずに言い放った。言われたほうの男――知属の男は、戸惑っているのか、一度口を開いたものの言葉が出ない様子だった。
 ウェルは眉根を寄せた。月のこのよそよそしい態度はどうだ。まるで無関係であるというように……。
 そして、はっとあることに思い至る。
(“記憶封じ”か……! 反応がいつもとは異なっていたけれど、やはり効いていたということ)
 それはウェルにとっては唯一の、そして最強の切り札となりうる。なぜなら、その神特有の術――夢神ウェルにとっては記憶封じの術――は、位の上下にかかわらず単独の力では打ち破れないという法則があるからだ。
 ウェルは自身に治癒の術を施し、静かに立ち上がった。
「その男に気を許してはならない。私の声をよくお聞きなさい、聞き覚えがあるでしょう……」
 ウェルは言葉で刺激し始めた。先ほど探り当てた心的外傷をうまく突けば、月神を洗脳することも可能だろう。元来そうした力に長けているのだ。
(そうだ、何も私が戦うことはない。月の力がどんなものかは知らないけれど、あの男がどれほど知力に秀でていようと、今まで現れることのなかった力を防ぐ術などあるはずもないのだから)
「お聞きなさい。目の前にあるその男こそ、あの恐ろしい、赤い炎を、もたらす者」
 ぴくり、と月神が反応した。ウェルは術の成功を確信する。
「私はお前と共にあるもの。あのときお前は、私の声を聞いた。確かに、すぐ傍で――」
「耳を貸すな……!」
 男が叫ぶもあえなく、気だるげに半ば閉じていた月神の瞳がはっきりと開かれ、その紫水晶が怪しげな光を帯びる。そうして黒髪がゆっくりと広げられた。
「目の前に立ちはだかるものは、お前の敵。排除しなければならぬもの」
 ウェルは唇に微笑を浮かべ、ささやく。
 向き合う二人、高まる緊張。知属の男の顔に焦りの色は濃く、しかし成すすべがないのか、何か言いたげに月神を見つめ返すばかりで言葉もなかった。いや、月神の威圧的な力に縛られ、何も出来なかったのだろうか。
「さあ!」
 ウェルが再度声を上げると、応えるように、闇の中に透きとおった光を浮かべる紫。じんわりと溶け出すようなその光。
 そして――
 ずぞぞ、と、汁気のある何かを吸い込むような耳慣れぬ音。
 声もなく、ウェルの体が揺れる。
「黙れよ」
 突き出されたキレスの腕の先に、ぽっかりと開いた穴。肉をえぐるその力は、獣に引きちぎられた様子とはまるで違い、器具で描いたような整った円形となってくぼんでいる。そこにあった肉はまるで、この一瞬で綺麗に切りとり、どこかへ持ち去ったよう。
 直後、肉体に開かれた穴から弾けるように血が飛び散ると、ウェルの身体がまるで大きな置物のように床に倒れた。どうん、という鈍い音に波打つ黒髪が遅れて被さる。
 ほぼ力を持たぬ女を残忍な方法で死に至らしめたキレスは、相変わらず気だるそうに、返り血の滴る顔面に瞼を半ば下ろし、足下に転がる遺体を無感情に映していた。
 赤い血だまりが広がり、キレスの爪先を濡らす。じわりとそこに染みる感触。その、しずかな熱。
 と、その感触に呼び覚まされるように、キレスの瞳がまたたき、開かれる。
 わめき散らすばかりのただの肉塊だったそれから生じたもの。――この、鮮やかな、赤。
 胸の奥がぞわりと波立った。その正体を確かめないまま、キレスは膝を折る。そうして、べちゃ、と音を立ててその中に座り込むと、沈む手足がじんわりとその熱を受け止める。そして熱は、全身に広がる。
 血の池に水浴びでもするかのように自身の身を浸したキレスは、すうと全身の力を解いて、仰ぎ、目を閉じていた。まるで心地よい夢の中にいるように、幸福そうに、無防備に。
 ああ、これだ。これなんだ。――キレスは思った。
 全身に広がりゆくこの安堵感。いや、開放感だろうか……?
 そう、そこにあるのは獲物を捕らえた獣のもつような高揚感とは違う。もっと静かで、もっと、やさしい。
 肉体の感覚が溶けて消えてゆくような……、そうして、傍にあった何もかもが、彼方へと遠ざかり、光とも闇ともつかない静寂に包まれるような。
 それは、とても――とても、心地よいのだ。
 その夢を、何度繰り返し見たか知れない。何度も、いつでも、求めてさえいる、夢。
 自分の中にある感覚。これを、確かに認めること。
 これほど心地よいものが、この世にあるものか。
 こんなにも夢中にさせるもの。他の何もかもを忘れて、手に入れたいと願うものが。
 ただ好きなのだ。ただ、好きなのだ。感覚がそれを望む、それだけなのだ。

 望むこと。それが自然であること。――そうした思いを、なぜ否定されなければいけないのか……?

「……キレス」
 その声に、キレスは現実へと引き戻される。
 目を開く。そうして、傍らに立つ男――ケオルを、見た。
 いったいなんという表情なのか。何か言いたげに、しかし言葉をなくした様子で、その目には明らかに動揺の色がある。……当然だ。そこにあるのは死、そして、その象徴とも言うべき、おびただしい量の血液。また、衣を染め上げるほどそれに身を浸すもの。
 この異様な光景を目にしてもなお、嫌悪を押し隠そうと必死で気遣っているに違いない。
(馬鹿じゃねえの)
 そういった装いを、キレスは何より嫌っていた。ケオルはなぜ北にやってきたか? キレス自身を救い出すためだろう、そういったものを当然として押し付けてくる、それがまた、不快だった。
 血溜まりの池から立ち上がる。と同時に、キレスは瞬間移動を行った。
 北の地下のどこに何があるのかは知らない。目的が特にあるわけではない。ただ、一人になりたかった。ケオルが自分を連れに来たことも、その後どうなろうとも、関係ない。これ以上、恩着せがましい真似をされるのはごめんだ。
 キレスは地下にあるまた別の廊下に現れた。青いタイルが敷き詰められた廊下。四角い柱の立ち並ぶ、天井の低い地下の空間。ところどころ灯されるランプ。その明かりのゆれが、タイルの青の表情をゆらゆらと変え、そこは本当に水底のよう。
 そこがどこかをキレスは知らず、また関心もなかった。北の地下は、どこもかしこも同じようなもので、まるで迷路だった。
「今度はどこに行くつもりだよ」
「……!」