睡蓮の書 三、月の章
おそらくこの男には下級精霊アクの呪文は通用しないだろう。上級精霊バーの呪文か……いや、もっと確実な方法がある。それは、他神の名を騙るもっとも高等な呪文だ。
《I ! sDm.Tn : iw rn n [Ammt-Apd], nbt-S, sAt-Hapy, ……》
知属の攻撃呪文には大きく分けて二種類ある。ひとつは精霊そのものを呼び使役するもので、素早く唱えられる代わりに威力が弱い。また、ある程度の知識があれば先ほどのように、精霊の名を唱えることで封じられてしまう。――もうひとつは四属の神の名を騙ることでその支配下にある精霊を威圧し、使役するもので、名を唱える事で無効化することはない。ただし、効果が現れるまで時間がかかるのが難点である。神に付帯する情報を多く唱えればそれだけ威力が強まるこの術を唱えることは、知属神にとってはステータス表明とも言えた。
ウェルが唱えることで、場の空気は緊張を帯びる。先ほどの下級精霊の術など及びもつかないほど、広く大気を占める重厚な空気。水属の神がその力を示したときと同様に、辺りの湿度が急激に増し、うっすらと霧が覆い始める。
《I ! sDm.Tn : ――おお! 汝らよ聞け》
そのとき。ウェルは自身の声を覆うように発された言葉に耳を疑う。
《iw rn n [Ammt-Apd],nbt-S, sAt-Hapy, …… ――わが名「鳥を捕るもの」、池の女主、ハピの娘。……》
男が唱えたその呪文は、何かの冗談か、悪ふざけでもしているのかと思うほど、ウェルの唱えたものとまったく同じだった。しかし、
《…… bHs-smsw, dd kht nbt nfrt, khpr Awwt, skhmkh-ib mA bw-nfr : khns sSw, hbhb Saw, st mHyt m skht nt ……――狩猟の長者、あらゆる良き物を与え、食物を生じるもの、美しき場所を眺め心休めるもの。この名において、巣を横切り、沼を通り抜け、この湿原にて魚を射ること……》
男の詠唱は早かった。早い上に言葉の一つ一つが明瞭に届く。ウェルの唱えた言葉を反復したかと思うと、あっという間にそれを追い越し、まだ唱えてもいない言葉を――いや、唱える予定のなかった言葉までも次々と生み出し、まだ、まだ、どこまでも語られている。
ウェルは術の続きを唱えることも忘れ、止まっていた。届けられる声の響きにただただ圧倒される。聖なる言葉の意味を知りながら、それらが形作る全体像が見えてこない。既知であるはずのものが、未知のものへと変わってゆく瞬間の、自身が縮小してゆく感覚。知っていたはずの情報について、さらによく知るものが話す言葉は、その瞬間、思考の停止をもたらす。まるで見えていた終着点がどんどん遠ざかり、今まで見ていたものが幻であったと思えるようなこの感覚は、胸に漠然とした不安を呼び起こす。それは言葉を解するからこそ、その言葉に囚われ易い知属の宿命でもあった。
そのうちに、術者――ウェルではなく、知属の男――の声に寄せられ集う精霊らの数は増し、水になりきらない湿気の塊が白く視界を覆う。呼吸する鼻孔をも覆うそれに息苦しさを感じ始めたころ、どこからともなく生じた矢が次々とウェルに襲い掛かった。
「……ッう!」
声にならない呻きを上げ、体中の痛みに耐えるように身を縮める。男の声は朗々と響き、霧をより濃く生じさせる。ウェルの身を貫く痛みは止まず、雨のように降り注ぐそれはますます強く鋭くなった。
「ああう……!」
皮膚が裂かれ、鮮血が散る。別の呪文で反撃に出なくては――分かってはいるが、体がいうことをきかない。
ウェルは混乱していた。この男はなぜ、自分が唱えようとした「セケト」の呪文をわざと同じに唱えたのか……? 神の名を騙る術は確かに封じる手がない。しかし言葉を解しその術の形を知る知属ならば、それを防ぐものか、それを超えるものか、とにかく効果のありそうな別の呪文を唱えるものだ。自分はそうしてきたし、今までそうでなかったことなどない。
いったいなぜ、何のために……? わけが分からない――しかしその理由は、結果を見れば明らかである。
ウェルは戦意を喪失していた。まったく同じ神を騙る術であったからこそ、明確に比較される、情報の差。それも僅かな差ではない。勝てる気など起こるはずもなかった。
しばらくすると、男は術を止めた。そうして、うずくまるウェルを冷たく見下ろす。
「『夢神ウェル・フトホル』……月にかけた記憶封じを解いてもらおうか。さもなければ――術者の死をもって、解かせてもらう」
「!!」
驚愕に見開かれる目。なぜ自分の神位を、それどころかこの名までを、知っている……?
いったいどこで、どうやって知れたというのか……いや、疑問はそれだけではない。
(――この男、いったいどうやってここに現れた……?)
どうもおかしい。門や結界を抜けこの場に来たのなら、追っ手はどうした。敵を素通りさせ放っておくことなどあるはずがない。
ウェル自身がしたように、魔法陣を用いた? ――ありえない。生命神の加護を受けた、地下深いこの場へ至る魔法陣には、北神としての正確かつ詳細な情報が要求される。北神を騙ろうとしたところで、そんな情報を、敵が知れるわけが――
(まさか!)
その情報を知れるものが、あの場にただひとつだけあった。――ウェル自身が用いた魔法陣である。
しかし知属の特別な力で描かれる魔法陣というものは、術後にすぐ消失するものだ。そして、たとえ記述と発動までの短時間で読み取れたとしても、簡単に意味が解せるものではない。なぜならそれは、暗号で描かれていたのだから。
複製のため丸暗記したのかもしれない、むしろその方がどんなに良かったか――だが、違ったのだ。おそらくあの短時間で、男は暗号をも読み解いてしまったのだろう。
ウェルの描いた魔法陣には、普段使われる文字とは別の文字をあてはめる暗号方式を用い、自身についてはフトホルの名どころか関連する形容辞すら避け、“歓喜の家の主”“万物のカーの家”“天の嵐”“沈黙の地より来る”“赤き髪”“雄牛たちの妻”“ケンミスのもの”と記しただけである。それが、運命を定める者としての夢神フトホルの顕現、七頭の雌牛につけられた名であると、知っていたというのか。
(この男……『ジェフティ』か……!)
太陽神側の知属最高位――同属上位であったとは。
まさかとも思わなかった。驕りがあったのは、自分のほうだった。他の神を騙る呪文をわざと同じに唱えたときに、気づくべきだった。また術時に近くにあったと、この男自身がそう証言したのに、そのとき既に自身と同じように姿を不可視にしていた事実と、それが意味するところに思いもよらないなんて……!
ウェルはうなだれた。男は声低く、新たな呪文を唱え始める。言葉に引き寄せられた火属の精霊たちが、大気を熱し、火花を散らす。
それでもウェルは動かなかった。いや、畏怖に縛られた体が動いてくれない。もはや月が奪われることを阻止する気力も湧かない。
そうするうちに、耳元で威嚇するように音を立てた火花が筋を引き、炎が肌に食らいつく。
作品名:睡蓮の書 三、月の章 作家名:文目ゆうき