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文目ゆうき
文目ゆうき
novelistID. 59247
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睡蓮の書 三、月の章

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 計画では、「月」を連れ帰り、記憶を封じたまま北の一員とするはずだった。必要なのは月の力であったのだから、用いるものがなくては話にならない。まだ幼いのは幸いだった、成長するまでの過程で無理なく受け入れることができるだろう。
 しかし部屋に踏み入ろうとしたその瞬間。
 炎が、どこからともなく立ち上がり、その行く手を阻んだのだ。
 狭い一室をあっという間に呑み込んだ赤い炎――風属の長たる夫ベスの力をもってしても、払い去ることのできなかった炎。はじめは「月」を守るためのものだと思った。しかしその向こうからは、少年の悲痛な叫びが、助けを求める声が響く。
 数刻後、炎は地に吸い込まれるように消え去り……、そこには、幼い少年が、横たわっているだけだった。
 少年はすでに息をしていなかった。思いつく限りの処置を施したが、効果はまったく現れず、ウェルはこれ以上は無駄だと判断するしかなかった。……そう、彼は目の前で確かに死んだのだ。
 そのときの絶望感を、今でもはっきり思い出すことができる。その瞬間、北に集う神々の千年の願いが潰えたのだ。
 呆然と立ち尽くすウェルが、混乱のうちにその少年の亡骸だけでも持ち帰ろうと手を伸ばしたときだった。手の内にあった聖鳥の羽が、月に触れたためだろうか、不思議な変化を見せた。すうと舞い上がり、燃えるように輝きを放つその羽。そして同調するように、少年の身体も紫の光を帯びる。それが触手を伸ばすように立ち上り羽に吸い込まれていくのを、ウェルは確かに見た。まるで「月」がその器を捨て、生命をその羽に委ねているかのようだった。
 それが終わるのを待つようにして、再び炎が立ち上がった。まるで少年に近づくことを拒むように、威嚇するように燃え上がる炎に、ウェルらは「月」の亡骸を連れ帰ることを断念。同胞らに目的の達成を告げ、急ぎ北へと戻ったのだった。
(死んでいた。確かに、死んでいたはずだ。まさか、謀られたとは……)
 いったいどのような方法を用いたのか、皆目見当がつかない。しかしどれほど狡猾な策がめぐらされていたにせよ、結果として、「月」の力は手に入れた。聖鳥の羽はやはり、あのときの少年の力を切り離し、持ち帰っていた。未熟な力であったためか、封印を解くのに予想以上の時を費やしてしまったが、それも無事終わった。封を解かれたそれは、今や紺青の珠となって生命神の手元に戻されている。
 生命神の神性は、ここに完全な形でよみがえったのだ。
 次こそは最後の戦となろう。――現ハピ神の持つ、ケセルイムハトの瞳のために。
(……それにしても、厄介なこと)
 「月」があの時、実際に死んでさえいれば、それで事は済んでいたはずだった。いや、特異な「月」の力を得たことで、戦はこちらに有利であるはずだった。
 しかし、このとおり。月は生きていたのだ。その力を持って、太陽神側に。
 千年前、惨劇を生み出した月の力。長くこの世から遠ざけられてきたもの、ゆえに、誰も知ることのないその力の性質。敵にあればそれは脅威となる。だが、味方となれば。
(ハピ神はそのために、捕獲を命ぜられたに違いない)
 それはウェルにとって幸いだった。十年前の失敗をこの手で埋め合わせることができたのだ。これで汚名も返上されよう。
 ウェルは、一度横たわる月を映すと、またそわそわと扉の向こうを伺った。廊下は今も静まり返ったままである。
(そうだ、レルに――あの子に相談しよう。側近と同等に重要な地位にあるあの子に話すことは、プタハに話さなかった言い訳にも十分なるわ)
 娘レルもまた、おそらく神殿地上部で修復作業をしているだろう。すぐに呼びに行こうと足を踏み出しかけたウェルは、しかしそのとき、耳に微かに届く聞きなれない「音」を捉えた。
「……?」
 振り返る。月はまだ眠ったままだ。……気のせいだろうかと考えた、が、その「音」はたしかに今も聞こえている。低く流れるそれは、月の横たわる辺りから生じているようだ。
 月が持つ何らかの力が発動しようとしているのか……? 心拍数が駆け上がる。――しかしほどなく、知属である彼女は、その音が意味をもってつむがれていることに気がついた。そして、
《mk! rkh.i.Tw, Hbs.k irw.k : kprti irw.k pw! 》
 ウェルは声を上げた。彼女が地上でしたように、何者かがその身を不可視にする術を用いているに違いない。そのような術を破れぬ彼女ではなかった。
 呪文が唱えられると、はたして、横たわる月のそばに、身を屈める男の姿が露になる。
 ウェルのその目が大きく見開かれた。
(まるで月と瓜二つ――兄弟か……!?)
 男は術が解かれたことに気づかないのか、こちらを向くことなく、眠る月神の耳元で熱心に何かをささやいている。その声が、変わらず低く床を這う。
 ウェルはすぐさま聖杖を構えると、声高く唱えた。
《mi! : akhw-m-IAbt : senw-n-Swt 》
 東方つまり風属の精霊らを呼ぶ呪文。ウェルの声に応え、地下の一室であるはずのその場の空気が、動きをもって肌を掠めてゆく。風が集い、その勢いを増す。――と、
《rkh.i, rn.nw : [fdw-nft] pw ――我、汝らが名を知れり。「フェドゥ・ネフェト(“四”の息)」》
 男から叫ぶでもなく発されたその声は、風の中に不思議なほどはっきりと響く。すると、たちまち風が止んでしまった。
 語られた精霊の「名」。名を知ることは、その本質を知ること。名を呼ぶことは、その脅威を収めることになる。つまり今、ウェルの唱えた呪文は封じられたのだ。
 神聖なる言語《メドゥ・ネチェル》を解し、また操るということは、この男はウェル同様、知属神である。
(生意気な……)ウェルは軽く舌を打つ。
 男が立ち上がる。そうしてウェルを向くと、彼は不敵な笑みを浮かべてこう言った。
「……さすがに、あれはないな。“n ntT mwt.f”」
「!」
 ――n ntT mwt.f 「汝、彼が母にあらず」。
 それは先ほど地上で、ウェルが月に用いた術のことに違いない。眠りへといざなうあの呪文は、対象にsA.i mr.i「我が愛する息子」と呼びかけ、Ink tw nTrt-pA-mwt.k 「我は汝が母なる女神」で結ぶものだった。
 どこに隠れていたのか、男はそれを聞いていたようだ。そして連れ去られた兄弟を助けに来たというわけだろう。
(術を解したのだと、自身の知力を誇示したつもりかしら)
 しかし、眠りの術は難易度がさほど高くはない。この程度で対等に立ったつもりだろうか。
 また、知属の神が敵と対するとき、己の情報は極力漏らさないようにするのが常識である。知属にとって情報は力であり、相手のそれをどれだけ手に入れるかで勝負が決まるといってよい。だがこの男……、下位精霊の術を制しただけでも十分知属であることが知れるというのに、自ら更なる情報を与えるとは。
(自己顕示欲……若いわね。でも残念なこと、程度が知れるわ)
 ウェルは年を感じさせないほどつややかな笑みを浮かべた。