睡蓮の書 三、月の章
隠していたものが引き出される。その正体を見る間もなく、怒涛のごとく押し寄せる感情がキレスを完全に縛りつける。それは――伸ばされた腕が救いのためでなく、死を与えるためと知る、希望が絶望にへ変わる瞬間。
「う……、うああああ!! や、め……っ――」
身体の震えが激しく、もはや身体を宙に留めることもできなくなる。キレスは川辺にうずくまった。不規則な呼吸を繰り返し、腕に食い込む爪の先から血がにじむ。
「さあ……もうお忘れなさい。いつまでも苦しみを引きずることはない」
女が優しくささやきかけ、指先でそっとキレスの頭部に触れる。そして、唱えた。
《m.k, sA.i mr.i, Htp-ib : Iw.i khwi.Tw sDr.f : nbt-mdtw-r-pt : Ink tw nTrt-pA-mt.k 》
低くやわらかな声色。唄うようにつむぎだされたその言葉は、次第に声高く唱えられる。
重なり合う鈴の音のように、声が耳を支配すると、どこからともなく、鼻の粘液にこびりつくような甘い香の匂いが漂う。
息をするごとに意識が白い霧に沈んでいく。敵から完全に意識を逸らしていたキレスは抵抗の様子も見せず、あっさり目を閉じるとその身を横たえた。
眠りの術に囚われたキレスを見下ろし、ウェルは手にした薫香の小坪に蓋をすると、その口元に微笑を浮かべた。
「ベス、あなた……。今度こそ、確かに『月』を手に入れたわ。これで……」
祈るように瞳を閉じ、そうして、手にした杖で地に呪文を描く。文字から成る空間移動の魔法陣が完成すると、ウェルはキレスを連れて地下へと向かった。
*
ラアの身体から溢れ出す、闇色の力。
シエンは咄嗟に地より壁を立ち上げ、ラアの力を受け止める。傍にいたヤナセはもちろん、カナスとカムアもどうにか囲い込み、その壁はラアと彼らを隔てるようにそびえ立った。素早い対応であったにもかかわらず、足や腕の一部が闇に食まれたように欠けていた。いや、その程度で済んでいた。あのままラアの力にさらされていれば、全員が一瞬で、その闇に無残に喰い荒らされていたに違いない。
ラアは我を忘れていた。目の前で起こされた信じがたい出来事に、理性のたがが外れ、自ら恐れ抑え込んでいた力を溢れさせる。
それは奇妙な力の放出だった。闇色の帯が伸び行くさまは、稲妻を思わせるが、動きが予測できないさまはまるで生き物のようで、黒い蛇が無数に放たれたようにも見えた。ラアの身体から、それらは四方かまわず吹き出し暴れまわっている。遠くまで伸びゆくものもあれば、短く消え去るものもあった。不規則かつ不安定に、大気中をのた打ち回る力。運悪くそれに触れれば、その部分は呑み込まれるように失われる。
石をすするような不気味な音を立てて、床の一部が、柱が、その形を奇妙に欠けさせる。そうしてバランスを失った神殿の一部が崩壊し、瓦礫となって崩れる音が響き渡る。それ以外は力の及ぼす影響の甚大さなど想像もつかないほど静かに、ただずず、ずず、とあちこちで何かを飲み込むような音が不気味に響くばかり。
上空では結界が音もなく溶かされ、一時退避した北神のうち数体が、まるでその力に感化されたかのように、その姿をどろどろとした闇色のものに変え、地上に降り注ぐのが見えた。
それを目にしたカナスは無意識に身体を震わせる。――これは何なのか。これが、「力」だというのか……? まるでこの世の理に則さない、得体の知れない力――これを、あのラアが……無邪気な、太陽の輝きそのものといえるようなあの少年が、生み出したというのか。
信じられなかった。……確かにラアの力は通常のものとは違う何かがあると感じていた。けれど――。
圧倒的。あまりにも、圧倒的だった。そしてカナスはそのとき、生まれて初めて力への怖れ――怒りや復讐心などを伴わず、ただただ畏怖するような――をはっきりと自覚したのだった。
「ラア!! 目を覚まして、ラア!」
そんな中、張り上げられたカムアの声が、そこがまだ生者の空間であると知らせるように強く響き渡った。
「これは……違います……っ、こんなんじゃ――っ、ラア!!」
じわじわと削られてゆく地の壁から抜け出し、カムアはラアのもとへと駆ける。
止める声も彼には届かなかった。白い衣に、その髪に、頬に、肩に、そしてラアに伸ばされる腕に、黒い蛇が無数に襲い掛かる。苦痛に顔をゆがめ、何度も悲鳴を上げかけては飲み込み、それでも進むのをやめない。
カナスたちの前にそびえる壁はラアの力に食い散らかされ、穴だらけの薄い板のようになっていた。シエンにはもう、その壁を強化する力は残っていない。膝をつきうな垂れる彼の前に、ヤナセが風を生み出し、間隙を縫い襲ってくる力を返そうとした。……しかし、案の定、風の力は闇に飲み込まれてゆくばかり。
生み出す力を端から飲み込む黒い蛇たち。完全な消耗戦だった。こちらがどれだけ力を生み出しても、僅かに動きを鈍らせる程度で決して消耗しない相手。食い尽くされるまで力を生み出し続けるのか……? しかし他に手立てがない。何もせぬまま命を落とすよりは、と、ヤナセは力を振り絞る。……息を吐ききってなお最後を搾り出すように、そうして、ラアの力が弱まった風の膜を貫き襲い掛かる。
その力が皮膚を食む音。力なく地に伏せる身体。……これ以上抵抗する術は、なかった。
「……っラア……っ」
そのときついに、カムアの手がラアの肩に触れた。
ラアは髪を逆立て、その双眸は窪んだ影のなかに黄金をじわりとにじませ揺らしている。あの無邪気な笑顔の面影などどこにもなく、それどころか何の感情もうかべることなく、この肉体は力を生み出す器に過ぎないというように。
カムアは必死で、意識をこちらに引き戻そうと、両肩にしがみついた。腕の力がラアの肩にかかる。――と、それを押し返すように……またはそれに応えるように、カムアの腕の下から無数の黒い筋が生み出され、カムアを包み込んだ。
「う……あああぁっっ……!」
ずずずず――肉をすする不気味な音が、カムアの悲鳴と重なる。
「ラアぁあぁ……っっ!!」
その一瞬。ラアの肩がぴくりと揺れる。
瞳ににじませていた金がすうと失われる。
逆立つ髪は収まり、そうして、黒い蛇たちは幻のように消え去った。
唐突に辺りを包む、静寂。
「――」
ラアはまだ放心したように、そこに立ち尽くす。
胸で小さく呼吸し、そうして、一度だけ、瞬く。
自分の身体にかかる重みを感じる。腹の上をずるり、と滑り落ちる重たい塊。筋を引く、赤。
それから、ど、と音を立て、地に横たわるもの。
「ラ、ア……」
掠れるように漏れたその声に、ラアの全身を激しいおののきが駆け巡った。
カムアだった。それは確かに、カムアだった。黒髪が覆い隠すその横顔は、ただれて元の形がわからないほどに歪んでいた。右手の指の先など、白い骨が覗いている。
「あ……」
その目にはっきりと突きつけられた、自ら犯した過ち。ラアの身体が激しく震えだした。全身の力が抜け、その場に崩れるように座り込む。
――やってしまったのだ。
あの恐ろしい力を、また、引き起こしてしまった。
作品名:睡蓮の書 三、月の章 作家名:文目ゆうき