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文目ゆうき
文目ゆうき
novelistID. 59247
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睡蓮の書 三、月の章

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 上空より遠く眺めると、その先には北の神殿が、水上に浮かぶ花のように白く幻想的に映る。それを目にした途端、胸の奥底から湧き出る、小さく焼き焦がすような感情。――それはつい先刻ここに来たときにはまったく感じることのなかったもの。
 ……自分はここを、知っている。とてもよく知っている。
 懐かしい。そう思うことに、違和感はなかった。千年前には王宮であったここ北の神殿は、少女アンプの生まれ育った場所だ。当時はこうした巨大な周壁もなく、地下の空間も開かれていなかったが、地上部はまるで昔のままだった。飾り気のない白の壁、四角い白の柱。水上に浮かぶいくつもの部屋、それを結ぶ廊下。
 目を閉じる。するとまるで昔のように――少女であったあの頃のように、廊下を行き交う人々の気配を感じ取れるような気がする。
 キレスと同じように、アンプもまた、目に見えないものを察知する能力に長けていた。壁を隔てた向こう側でも、傍を通るものがあれば……それが知人ならば、誰であるかまで正確に知ることができた。事件を――もっとも本人はそれを事件とは捉えなかったが――起こしてからはほぼ軟禁状態だった少女は、その力を用いていつも、あることを待ち望んでいた。
 それは義兄である、生命神ハピが訪れること。
 乾いた大地を潤し、恵みをもたらす大河。その化身とも言うべきハピは、分け隔てない慈しみをもって人々に接した人物であり、それは奇妙と避けられていた義妹アンプに対しても同じだった。ものの理解に乏しい少女でも、ハピの自分に対する態度が、他の誰とも同じでないことは理解できた。そしてまた、そうした態度――あたたかな、思いやりのある態度――を受けたのは、ほとんど初めてといってよかった。
 心地よかった。気持ちが安らぐのを感じた。彼が傍にいれば、どこか空虚な気持ちを、遠くへ追いやることができる。
 少女はいつもひとりだった。それはこの部屋にひとり閉じられる前も後もたいして変わらなかった。彼女を訪ねるものもなければ、彼女自身が尋ねてゆき、それを迎えるものもなかった。誰かの傍にいることに執着しなかったが、けれどずっと孤独でいることを望んだわけでもなかった。近づけば離れられ、今は近づくことも許されない。どうせ同じである。ただ、どうすればいいのか分からなかった。
 そんな少女に、ハピは自身から近づいた。しかし彼は以前アンプに近づいた男のように、アンプに何かを求めたのではなかった。
 そう、ハピはアンプに何も求めなかった。ただそこにあることを受け止めるように傍にあった。
 それがどれほど彼女を救ったか分からない。
 閉じられたそこは彼女だけの幸福の空間だった。手に入れようとするものも排除しようとするものもなく、代わりに、安らぎを与えてくれる人がただひとり、傍にある。
 ここだけが、安らぎの空間だったのだ。
 ゆったりと、目を閉じたまま、郷愁に浸るように、過去の想いで胸を満たしていたキレスは、そこが敵地であるということをすっかり失念していた。
 大気の唸り。その音に現実へと引き戻されたキレスが目を開くと、警戒の意思に応えるようにその身を一瞬で透明な膜が包み込む。
 ざざざ、と音を立て、キレスの身を包む結界が風の刃を受け止めた。
 その音を聞きながら、キレスの目は地上に向けられる。この力の主――その気配はすぐに捉えることができた。ここより北の崩れた柱の傍、群生するパピルスの陰にあるその人物。周囲の景色と同化したように曖昧にしたその姿、しかしキレスには「見える」。
 まだ大気の鋭く流動するその中、キレスはくるりと身を翻しその人物の傍に降下した。
「なあんだ……オバサンかよ」
 何らかの術を用いているのだろう、姿の見え方が通常とは違うが、それは波立つ髪を腰まで伸ばし、動きづらそうなひらひらとした長いドレスを身にまとう、女。明らかに戦闘向きの女神ではなく、またキレスの倍は年を重ねている様子だった。
 女はひっと喉の奥で悲鳴を上げた。身を小さくし伺うようにキレスを捉えていた瞳が、徐々に、大きく見開かれる。
「お前、まさか、――『月』」
「へえ。分かるんだ」
 キレスはうっすらと笑みを浮かべて見せる。しかし、
「お前は……覚えていないのか。私のことを……」
 女の言葉に、その笑みが消え去った。
 敵であるはずのこの女から、なぜ、そんな言葉が出てくるのか。何の話をしているのか……? 
 その一瞬の動揺を、女は見逃さなかった。先ほどまでのおびえた様子を一転、ふっと口元を笑ませ、緩やかに立ち上がると、
「……そう。お前は忘れてしまったのね。無理もない」
 どこか哀れむような瞳を向ける。
「苦しかったのでしょうね。あんな恐ろしい出来事を抱えて生きるなんて、幼いお前には酷な事。それは、おまえ自身の防衛反応。当然だわ」
「何の、話だよ。……人違いじゃねえの」
 警戒を見せるキレスに、女はふふ、と声を漏らす。
「そうね、お前には見えない。でも私には見える、お前が私の姿を見破れたように。――十年前のことよ」
 はっ、とキレスが息を詰める。女は静かに続けた。
「まだ幼かったお前は、伝え聞いていた月の姫と同じ、美しい紫の瞳をして……可愛らしく肩で切りそろえた髪に、露にした首元を紅玉髄で飾っていた。そう、今もその首にある――」
 無意識にキレスの指が首元に伸ばされる。様々な色と形の装飾を身につけている彼だが、首を飾る紅玉髄、この一点だけは、確かに幼い頃からずっと身につけてきたものだった。
「戦の混乱の中、お前は隠されるように地下の部屋にあった。私たちが、やっとお前を探し当てた、その途端、あたりは火の海に――」
「火――……」
「ええ、そう。紅い、真っ赤な、まるで獣のように猛り狂う炎。呼吸するだけで喉が焼けるような空気」
 女の言葉に引き寄せられるように、キレスの中に閉じた何かが、熱をもつ。
「肌を焦がす熱風。家具が焼け、煙る臭いがたちこめて、辺りはただ真っ赤――」
(煙る臭い――赤)
 なにかが引き出されそうだと思った。それも、ひどく不快な“何か”――ゆっくりと語られる女の、その言葉一つ一つが、キレスの脳裏をめぐる。と、
「……っ」
 突然、眼球の裏側からその色が、鼻孔の奥からその臭いが、たちまち蘇る。ぐらり、とめまいを覚えた。
 ――炎。そして熱風。一瞬の安堵、直後に突き落とされる恐怖の淵。助けを求め伸ばした腕――
(……誰に……?) 
 出てこない。ただ、恐怖心が――押さえ込もうとしてもにじみ出るような、強烈な慄きが、胸の奥底に隠されているのを知る。これは開けてはならないと、無意識が知らせる。
 そこへ、追い討ちをかけるように降りかかる、女の言葉。
「あの戦は確かに、お前のせいで起こされた。それを知り、責任を取らせようとでもしたのかしら? 残酷な――太陽神らしい判断だこと」
(俺のせい――)

 “お前さえ、いなければ――”

 千年前のあの言葉――それが、十年前のあの瞬間ととぴたり一致する。