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文目ゆうき
文目ゆうき
novelistID. 59247
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睡蓮の書 三、月の章

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 克服なんてできていなかった。あの時と同じだ。抑えようと思っていた、それができると思っていたのに。
 もう二度としないと誓ったのに、それなのに……!
 ヒキイを失ったこの力で、また大切なものを失ってしまうのか――。
 身体が弱々しく震え出す。自らの意志で動こうとしない。
 どうすればいいのかわからなかった。ただ、どうすればいいのかわからなかった。
「ラア……、結界を……」
 カムアの声が再び届く。
 ラアはその声に応えるように聖杖を握ると、言われるがままに力を示した。光の膜が現れ、中庭であったその場所を包み込む。ラアはいまだ続く意識の混乱の中、瓦礫に埋もれるように身を横たえた仲間たちの姿を捉えた。激しい後悔が胸の奥を引き裂く。これらはすべて、自分自身がやったことなのだ。
 意識して呼吸を繰り返し、わずかに自身を落ち着けると、ラアは結界の範囲をさらに広げた。西の治癒女神は無事だろうか。まだ、守るべきものは残っているだろうか。
(――“守るべきもの”……?)
 ふと、ラアの胸に浮かぶ疑問。
 この力は、本当に、何かを守ることなどできるのだろうか……?
 ラアはのろのろと上空を見あげた。真上にあった生命神ドサムの姿は、少し距離を隔てた先に見えている。その瞳は、今もまた開かれているようだった。自分が仲間に負わせたような傷は、ドサムには見当たらない。北神らも数を減らしたようだったが、遠くに逃れていたのか、まだいくらか気配が残っている。
 守るべきものを傷つけ、退けるべきものを退けられない。
 この力は、一体何のためにある……? 
 戦争の終結を示す“ケセルイムハト”が、本当に生命神のあの瞳であるなら、自分は……――
 弱気な考えばかりが浮かんでくる。ラアは今、それを払拭するだけの強さを保てないでいた。
 振り出しに戻った。まるで、戻ってしまった。初めてこの力を解き放ったそのときと、全く自分は変わってなどいなかった。誓いは反故にされ、もうこれ以上誓いを立てることなどできそうになかった。それはまた嘘になるに違いない。簡単に繰り返すのだ、何度も、何度も……。
 思考が前に進もうとしない。ずっと止まったままだった。入り込もうとするものも、それを受け止めるものも、どちらもない。これ以上の思考は、自分を否定するばかりであると分かっていた。だからこそ、そこから逃れていたのかもしれなかった。
「……ヤナセ……! あなた、しっかりして!」
 女の声が悲痛に響く。ラアはびくりと肩を揺らした。治癒神ヒスカだ。階段を駆け下り、横たわる夫の傍に崩れるように屈みこむ。
 妻の声に、ヤナセは声こそ返せなかったが、指をぴくりと動かし応える。ヒスカはそれ以上声を上げることなく、ただひたすら治療に専念していた。
 そうしている間に北神らが回復したのだろう、ラアが新しく張り巡らせた光の結界に、攻撃が加えられた。方々から仕掛けられるその力を、ラアは払おうともせず、まるで他人事のように結界を見上げるばかりだった。
 いつものラアであれば、この程度の攻撃は容易に弾き返すことができたろう。けれど、今はそんな気力すら湧かなかった。
 眠っているのか起きているのか、それさえ自分自身でも定かでない状態。
 このまま終わるのか。
 終わりが何か、始まりが何か。……わからない。

 ――そのときだった。
 無気力に半ば伏せられたラアの目が、僅かに色を取り戻す。
 ラアは、ひとつの気配を感じ取っていた。
 ゆっくりと、顔を上げる。この気配は、知っている。自分はよく知っている。
 思いがけない感覚だった。何も受け付けていないはずの心に触れるもの。冷えきった心を、ふんわりと包み込む、柔らかくて温かいもの。
 ラアはふらりと立ち上がる。そうして、神殿の入り口のほうへ顔を向けた。
 ラアの意識は、なぎ倒された柱を飛び越え、いくつかまだきちんと建っている柱をくぐり、光の結界の西端となる前庭へ。
 まっすぐに敷かれた石畳の向こう、そびえ立つ塔門の奥。
 ふたつの扉の向こうにたたずむ、ひとりの人物。
 今までひと時も忘れることのなかった、その人物。
(ああ……)
 胸の奥に詰まる思いを吐き出し、ラアはぎゅうと目を閉じた。
 切れ長の黒耀の瞳は、いつでも温かく、自分を見守ってくれていた。
 その口元には、いつも困ったような微笑が浮かべられ、諌める時でも、いつも結局、自分を守る言葉で結ばれた。
 懐かしい、とてもなつかしい人。
 言葉にならない。どれだけ吐き出しても、次から次からあふれては胸を締め付ける。
(生きて、たんだ……)
 ラアは、暗い闇の中に小さく灯された微かな光を、掴み取ろうとしていた。

   中「ほんとうの」へ続く