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文目ゆうき
文目ゆうき
novelistID. 59247
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睡蓮の書 三、月の章

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上・夢・4、これは、何…?



 何が起こっているのか、よくわからなかった。
 ラアの肌は焦げ付くほどの熱風を感じ、目は炎を、その渦の中心にある人の姿を確かに映している。
 しかしラアの意識は、それが“何”であるかを判断しようとしない。
 盛り上がる炎に突き上げられるように、姉の体は反り返り、そうして激しい輝きの中、人らしい形だけを残して、徐々に曖昧な影となってゆく。
 ラアの見開かれた瞳は、瞬きを拒む。
 なぜ今、炎が上げられたのか。
 味方の手によって、なぜ、ここに?
 なぜその炎が、姉を呑み込んでいるのか。
 あれは、本当に姉なのか。
 混乱を自覚しないまま、脳のあちこちで同時に浮かぶ疑問。……けれど、答えを求めることなく、浮かんでは粉々に散り去るような。
 ほんの十数秒が、感覚においては永遠に近かった。
 誰一人として動かなかった……いや、動けなかった。そのうちに、炎はすっと地に消えるように収まる。そう、たった十数秒。ただそれだけの間に、ラア姉であったものは、人型の黒い塊に成り果てていた。
 ラアは茫然と、その黒い塊に目を落とす。
(なに……? これは、何)
 炎の勢いから解かれ床に転がる黒焦げた肉塊は、もはや個を識別するものはなにもなく、性別すらわからない。それは、骨に張り付いた黒い皮。染み出した黒い何か。指や鼻などの細かい形も曖昧になっている。
 まるで人ではなかった。もしかしたらそれは、姉の姿を象った人形だったのではないか。
 驚くほど感情が動かなかった。いや、動かすことを強く拒んでいた。ラアはただ、ぴたりと止まっていた。
 しかし、視覚を誤魔化したところで、臭覚までは誤魔化しきれなかった。肉を焼く臭い。血の、内臓の、様々なものの、焦げ付いた臭い。それらが鼻孔から入り込み、脳を刺激する。
 ラアの無防備な意識が現実に開かれる。
 ……姉は殺された。
 この、黒く焼き崩された無惨な、醜い肉塊こそは、姉なのだ。
 ラアの瞳がのろのろともち上がると、まるで時が止まったかのように静まり返ったその空間に、あるものを捉えた。
 中庭の向こう側、列柱を背に立つ男神。その闇のうちに灯る二つの眼。
 フチアの、炎神として持つその瞳の赤が、禍々しいほどの色合いを呈している。
 その姿をはじめに見とめ安堵したカムアでさえ、今その眼の色に言いようのない恐怖を覚える。
 しばらく……、炎の主とその力の犠牲となったもの、その間にあった異様な――不可解な――雰囲気に呑まれ、誰も言葉を発することがなかった。
 まるで時を止めたように固まっていたその場ではじめに動きを見せたのは、炎の主であるフチアその人だった。突き出されていた腕をゆっくりと下げ、瞳の赤を一度まぶたで覆う。再び開かれた瞳からはあの不気味な色合いは消え去り、いつもの無表情に戻された。
 そうして戦闘態勢を解いた彼は、ふと後方を振り返り、そのまま、すっと光に身を包み姿を消し去った。
 いったい何が起こったのか――ラアはもちろん、間近で炎を見ていたカムアも、一部始終を同じように見ていたシエンたちもまた、状況を理解するという意識すら持てずに、呆然とそこにたたずんでいる。
 フチアが去ると、まるで示し合わせたように北神らの攻撃が再開した。その瞬間、滞っていた時の流れが堰を切ったように流れ出す。ヤナセ、シエンが敵の攻撃に応じ、その場は再び戦場と化した。
 次々と起こされる力の衝突。風の唸りが、岩石の砕かれる音が、爆音が、時に結界を削る音も加え交差する。まるで先ほどまでの異質な時間を消し去ろうとするように、絶え間なく注がれる。
 その様子に強い違和感を覚えたカムアは、警戒を強めて上空を見つめる。
(なにか、おかしい……)
 何もなかったでは済まされない。神殿内だけの出来事、しかし北神がまったくの無関係だと決め付けることができるだろうか……?
 もしも、もしも関係があったとしたら……?
(なにかが……)
 生命神の姿は変わらずそこに――上空にあった。ただ、先ほどとは違い、あのケセルイムハトの瞳が再びまぶたで覆われている。
 奇妙だ。あの瞳は、何かを引き起こしていたに違いない。
 その“何か”を探るように、カムアは生命神の様子を注視する。ほんの僅かな動きも見逃してはならない。瞬きひとつ、眉根の僅かな動きひとつ、そこに何らかの意味が隠されてはいまいかと――
(!)
 そのときだった。耳の奥が詰まるような感覚に次いで、意識がぐいと吸い寄せられるのを感じた。カムアの胸がざわりと騒ぐ。
 生命神に動きは感じられない。……いや、この力は上空からではない。もっと近く――
(……ラア……?)
 振り返る。そこには表情なく立ち尽くすラアの姿。
 どこでもない空虚を映す大きな瞳。その闇色の奥に黄金が灯り、急速に光を束ねる。
 不揃いな髪が獅子のたてがみのように逆立ち広がると、大気が動いた。はじめは微かな風のようだったそれは徐々に強く、ラアのもとへ引き寄せられ、渦を巻いて立ち上がる。
「……!?」
 シエン、ヤナセそしてカナスも、ラアの異変に振り返る。ラアから起こされる、身体を見えない糸で強く引くような力。その強い引力に、地から引き剥がされそうになったとき……、
 ふっと、その力が解かれたかと思うと、その直後、たった一瞬、夜の闇が反転し、視界が白の光に覆われた。
 その光は、幻ではなかったのかと思うほど、一瞬。そうしてまた、夜に戻る。
「ラア……?」
 今、ラアの身に何が起こったのか。カムアは伺うように声をかけ、はっとした。
 夜の闇にまぎれてはっきりと視覚で捉えることはできないが、カムアには分かる。ラアの身体から、じんわりとあふれ出す力の存在を。
 ラアを包む暗黒は光を拒むようにそこにあった。そうして、その中に不気味に灯る黄金。
 ひと月前、北の地下から放たれたあの力と同じだった。それは、敵味方の区別なく襲い掛かる、“負”の力――。


   *


 幅を広げた河の水に、半分ほど呑まれたパピルスの群れ。
 大河の下流。そこにキレスは再び、姿を現していた。
 そう、再び――。キレスは力を用いて上空へ浮かび上がった。つい数刻前ここを訪れた時には、河の流れを導くように左右に整然と立ち並んでいた白い柱が、今はいくつか崩れ去っている。北の風神と争ったためだ。
 意識した場所よりずっと南に弾き出された。そうなることは分かっていた。……北の守備範囲のために。
 守備範囲はどこの神殿にもあるひとつの防衛機能で、その範囲内に想定されない力――つまり敵――が外から直接影響することは出来ない仕組みになっている。先ほどここへ来たときも、わざわざ地上を歩いて、守備範囲に入らなければならなかった。守備範囲に入れば、敵に自らの存在を晒す。今は幸い多くの戦力が中央に割かれているため、先ほどのようにすぐさま危険が及ぶことはないだろう。
 しかし彼は、戦うためにここを訪れたわけではなかった。ただ今、ここに来たいと思った……それだけだった。