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殉愛

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 男が行っていない幾つかの事。
 それは例えば、天使を愛でる事。

 あまり知られていない話だが、悪魔ほど天使を好む生き物はいない。
 その白き清純さを、頑ななまでの潔癖さを、無垢な冷酷さを、悪魔は心の底から好んでいるし、愛でたいと思っている。
 汚し、甚振り、喰らい尽くし、その美しい魂の欠片の一片すらも自分だけの物にしたいと望んでいる。

 男もまた、同様であった。
 いつか機会があれば、あの白い生き物を愛でたいと願っていた。

 だが天使と戦い屠る事は容易くとも、愛でる機会は巡ってこないのが常である。
 天使が神の庇護の下でしか生きられない生き物で、戦いの場以外に天使が現れる事が稀だったからであり、また、悪魔が天界に攻め入る事が容易ではなかった為だ。

 悪魔が天界へ、天使が魔界へ攻め入ることが少ない理由―――それは互いの世界の空気そのものが、もう一方に対しては毒として作用するからだ。
 特に、常に神に守られている天使とは違って、何に守られてもいない悪魔にはダメージが大きい。最悪、数分もしない内に死に到る。
 現に今も、境界に立っているだけで、男の黒い羽は灰色に様変わりし、凍りつく寸前だ。境界を踏み越えてしまえばどうなるかなど、想像するまでもない。

 領域侵犯は、侵した者の死をもって償わされる。
 それが二つの世界の、数少ない絶対の理だった。

 したがって、天使を愛でたいと願う悪魔に出来る事は、天使が訪れる可能性がある場所にて、ただ待つ事だけ。
 それでも悪魔は、長き生を持て余しながら、片手間に、或いは飽き飽きしながら、己の手元に幸運がおちるのを待つのである。

 しかしながら、可能性がある場所はとても少なかった。
 天使が神からの庇護により生きている以上、神の御許から長時間離れては生きていけなかった為だ。
 天界から離れておらず、また、魔界にも程近い場所。天使が訪れる場所にはどうしたってそんな前提が必要になる。

 そうして、その数少ない場所の中でも、最も可能性が高い場所―――それがここ、魔界と天界の境界だった。
 両界の空気がぶつかる際に発生する乱気流に飲まれた天使が、魔界に落ちてくる事があったのだ。
 両世界の間には一応の境界線が引かれていたし、監視も置かれていたが、それでも尚、頻度的には極稀にではあるものの、落ちてくる天使がいなくなった試しはない。

 男も以前はただそれを待っていた。
 無理を通さずとも待つ時間は飽きる程あった。そう思っていた。
 だが、男の運がなかったのか、忍耐が足りなかったのか、今の今まで、飽きる程に待っても機会は訪れなかった。

 別に、そこで諦めても良かった。忘れてしまっても良かった。
 だが諦める事も、忘れる事すら飽いていた男は、それを力づくで成す事に決めた。

 上手く行けば天使が手に入る。
 失敗しても、今までした事のない死という概念を体験できる。

 その思い付きは数百年振りに、心躍るものであった。

 悪魔が天界に攻め入るリスクが高い分、天界の監視の目は緩く、掻い潜る事は容易い。
 あそこに天使がいる。
 そう思えば、もはや監視の抑止力など紙盾にも劣る。ためらいを呼ぶものですらない。

 嗚呼、ようやく長年の望みが叶う。
 一刻も早く愛でたい。

 獰猛な衝動に任せ、男はぐっと羽に力を込めると、冷たい空気を切り裂いて飛び立った。

 男は力ある悪魔だった。
 故に羽ばたきは力強いものであったが、一掻きごとに冷たさを増す天界の空気の前では、翼が凍り付くのは時間の問題だった。

 視界は目がくらむほど白一色。
 先端から霜の降りる気配。
 冷たさに焼かれた皮膚は黒く爛れ、進む度に醜い水泡が浮かび上がり、もたらされる痛痒は耐えがたい。
 呼吸をすれば肺腑が鋭く痛み、すぐに満足に息も出来なくなる。

 男を苛む、死に直面した痛み、苦しみ。
 力ある悪魔であるが故に死に瀕した経験のなかった男にとっては、身じろぐだけで襲われる刺すような激痛すら、初めての体験だ。
 飽きるほど生きてなお初めて味わう事柄の、その新鮮なる実感は、飽いて膿んだ心持ちで時をやり過ごしていた男の首裏を、久し振りに震わせた。
 焼け付くような、背筋を遡るような、怖気。
 ―――それは間違いなく、生の実感だった。

作品名:殉愛 作家名:睦月真