殉愛
男には、悪魔の常で、人の子のように家族や友人といった存在は居なかった。
無論それで不都合を感じた事もなかった。
階級こそは然程高くはなかったが力に恵まれており、木の股から生まれ、戦いと誘惑に明け暮れ、欺瞞と堕落に満たされ、倦み腐る。そんな悪魔らしい生を送ってきたし、その事に微塵の疑問も抱いていなかった。
そうして、幾百の刻が流れ。
孤独を愛し、戦いに楽しみを見出していた頃はとうに過ぎ去り、気付けば、男は何をするにも新鮮味を失い、呼吸すら億劫になっていた。
影を引きずるように歩く今は、生を四季に例えるならば冬の入り口。
晩夏の熱を懐かしく思えども、降り積もる倦怠感に押され、羨望すら沸いて来ない。
もう、飽いた。
男は思う。
悪魔の生は長い。
山程の屍を作る事も、埋まる程の財宝を集める事も、酒色にふける事も、怠惰に転がる事も、充分過ぎる程出来た。
己の考える事をし尽くしても余りある程長かった。
生きる事が苦痛になる程に、長かった。
もはや男がしていない事は、幾つかしか残っていなかった。
そしてその幾つかは、悪魔には行えない事か、行う事により取り返しのつかない不都合が生じる事か、もしくは行う為には運や転機と言った男自身ではどうにも出来ない要因が必要な事ばかりだった。
無論、足掻く時間は存分にあったし、事実足掻いてみた事もある。
それでも、それが無駄な足掻きと理解して、打ちのめされても尚、悪魔の時間は有り余っていた。
もう、存分に、飽いた。
何もかもに、飽いてしまった。
男は孤独だった。
そして、生きる事はおろか、飽きる事にすら飽いていた。
(……ああ)
魔界と天界の境に立ち、大きく息を吐く。
天界は地底にある魔界とは違い、天上に浮かぶ世界だ。
神の住まう大きな城と、その周りを取り囲む城下町、そして外側に散らばる要塞小城から成っており、色とりどりの羽を背に生やし白い衣を纏った天使が、その合間を飛び回っている。
流れる清浄な空気は、身にしみる程冷たい。
白い呼気が風に揺れ、彼の黒い羽を灰色に汚した。
暗闇を閉じ込めた目を上げれば、要塞小城から、天使が男を監視しているのが見えた。
男はうっそりと笑みを浮かべる。
―――もはや男がしていない事は、幾つかしか残っていなかった。