睡蓮の書 二、大地の章
そうだ、たぶん気付いていた。自分の力が、これで全てではないということ。満ちることのない、欠けたままの月……そう感じることに、根拠などない。いつものこと、けれどおそらくそれは事実。
ジョセフィールは月属の神だ。彼もやはり自分と同じように、感覚で知ることができるというのだろうか。
「まあ、焦ることはない。午後からのんびり、はじめるとしよう」
ジョセフィールは緊迫した空気を自らふつりと切り去り、そのまま、背を向け神殿奥へと向かう。
キレスはその場を動かなかった。澄んだ紫の瞳には、ジョセフィールの肩から垂れた濃い藍の衣が映る。深い青色は、夜の天空を思わせた。
唇をかむ。今の自分には、彼のことが分からない。自分のほうが格上のはずなのに、まるでそう思えない……それも、失われた記憶が原因なのだろうか。
(取り戻してやる……必ず)
*
「え。キレス先に来てたんじゃないの?」
鞄から書物を出し入れしていた手を止めて、ケオルが顔を上げる。
「今、着いたようだな」
新しいパピルスの巻物を一つ、その手に広げたまま、兄フチアが部屋の一角を見遣った。実際には部屋の外にある気配を感じ取ったのだろう。
ケオルも同じように、その一角を見る。ただ彼は兄や他の神々のように、気配などをつかめるわけではなかった。
(あいつ、大丈夫かな)
昨晩、どうも様子がおかしかった。自分からゲームをしようと言ってきたのに、いつもの調子が出ないどころか、時々呆けていたりした。そのときは、久々に葬儀を執り行った後だったし、その前には北にも行ったのだから、疲れが出ていたのだろうと思った。けれど、もしかしたら……。
(北で、何かあった……?)
キレスの記憶が北に奪われ、今も存在しているかもしれない。その可能性を吹き込んだのはケオルだった。もちろん根拠はある――「予言書」だ。
それは実際には、書物ではない。新しい年が明ける頃、東の地下書物庫の壁に、水を吸い上げた石から染み出すように浮かび上がる文字。多くが未来起こるであろう出来事を“予言”していると考えられているその文は、暗号じみた難解なものになっている。それを正しく解釈し王に報告することは、知神に与えられた重要な使命のひとつだった。
一代約二十五年のうち一つ二つ著されるかどうかというこの文は、現在51節まであるが、すべてが解けているわけではない。未来のいつの出来事を予言したものか明記されないので、すぐ実現することもあれば、冒頭にある戦の終結の予言のように、まだ実現されないものもあった。二重の称号についても、八百年も前に予言されたことが、今になって実現しているのだ。
忘れてはならないのは、「予言書」は北の知神にも知らされるという事実だ。東だけでなく、北の神殿の壁にも現れるらしいこの文は、ゆえに、知神が生命神側と太陽神側の二つに分かれる前に存在したという、知属の祖が書き記しているのではないかと噂されている。
その「予言書」に、最近……自分たちが生まれる数年前に、月神の復活を予言したと思われる文が記された。当時の知神であったケオルの父が読み解いたその文は、今の彼が見てもひどく難解というわけではない。北神も同じように解き、そして、方法は分からないが、それが実現したことを知ったのだろう。
「月神アンプ」が千年のあいだ不在であったということ。その理由と、存在の重要性についてはいまだ多くが謎のままだ。父は主に月神について研究していたようだが、思うような成果は上がっていないらしかった。けれど、北も同様であるとは言い切れない。――いや、この件に関して言えば、おそらくこちら側は情報が不足している。知属にとっては特に、情報の差は力の差となって現れる。焦りを感じずにはいられなかった。
キレスの記憶や力について関心があるのは、友人であるからだけでなく、以上のような理由があるのも確かだった。ただキレスは、自身の記憶に関わることを、特にケオルには話そうとしない。それをケオルはよく分かっていた。
ふと、兄が書物を巻き直しているのに気付く。意見を聞きたくて、部屋に着くなり手渡したその書は、シエンが見つけてきたあの古い書の写しだった。
「もう読んだんだ。……それで兄貴、どう思う?」
「どう、とは?」
「信用できるかってこと。生命神が太陽神の兄だったなんて……聞いたことないだろ?」
「それを判断するのは、知神の仕事だろう」
途端に、ケオルの表情が陰る。
(よく言う……。最有力とされながら、辞退したのは誰だよ)
「それで? お前はどう考える」
逆にたずねられ、ケオルは冷めた口調で言葉を連ねた。
「……地属寄りの描写が目立ち、一人称的な視点が多いことから、原作者はおそらく地属神。とすれば、ヘジュウルの記述があることより、その信憑性が増すと考えられる」
「……ヘジュウルか。なぜ?」
「知属の特別な文献でのみ言及されるこの神について、他の属性が興味をもったり、また知る機会があるように思えない」
やはり知っていたのか。ケオルはその言葉を、兄にも向けていた。
知属の祖とされる伝説の存在、叡智神ヘジュウル。太陽神側と生命神側に分かれた二人の初代知神の師であり、言葉による力に優れ、未来を予見したと言われる。……そのような存在について知る機会が、火属となった兄にあるだろうか。それだけ、先の知神であった父に、跡継ぎと望まれ、仕込まれていたに違いない。
「だから、原作者ははじめの王ウシルと同時代……または近い時代を生きたんじゃないかと思うんだ。そうなれば、この書は事実を記している可能性が高い」
「――原本から抽出したものに、この書を著した知神が解釈を加えた可能性は?」
フチアの指摘に言葉を詰まらせる。否定できない。
兄は必ず、気付かない穴を突いてくる。……敵わない。もちろん、自分が甘いのは分かっている。それでも、疑わしいところを余さず取り上げ、必ず正しい答へと導く兄は、誰より尊敬してやまない存在だった。
ケオルは、ひとつ大げさに息をついた。どのような書も、書き手の意思がまったく無になることはない――兄は繰り返しそう教える。書に嘘はない、事実と真実が織り交ぜられているだけだ。事実は普遍であり、真実は個人を知る手がかりとなる。だからこそ、それを判別する力をつける必要があるのだと。
(丸ごと一冊の信憑性より、内容を整理して一項目ずつ、考えたほうがいいかな)
確かにこの書は、個人的ともいえる視点と、全体を整理しようとする冷静な視点が混ざり合っている。原本が他にある可能性が高く、そこに記されているものはこの通りではないかもしれない。
(シエン、西のどこで見つけたって言ってたっけ……?)
現大地神である彼がこの書を見つけてきたのも、偶然ではなかったかもしれない。
太陽神と生命神の争いが始まってから、この千年間、大地神ゲブ=トゥムは北――生命神側にしか現れていなかった。地属の大半が北にあり、彼らが血によって力を継ぐ性質をもつことを考えれば、それは当然だった。
しかし、予言書に記された“二重の称号”により、太陽神側に初めて地属の長が現れた。
作品名:睡蓮の書 二、大地の章 作家名:文目ゆうき