睡蓮の書 二、大地の章
兄はこの声で、よく昔話をしてくれた。そう、兄は何でも知っていた。千年前のことも――。
自分たちの過ごすこの、北の神殿は、はじめの王ウシルのために建てられたものだということ。かつてここには王座があり、ウシルはここから世を統べたのだということ。
「覚えてるよ、兄上。兄上が話したことを、忘れるはずないじゃないか」
千年前、太陽神ホルアクティによって奪われた王座。太陽神は自身のために、大河のより上流に神殿を建てた。それが、今の中央神殿である。
(兄上は、思い出したんだな。太陽神の所業を、その、罪を)
だからこうして戻ってきたのだと、セトは思った。
けれど、それでも……その口元に、あのころのように笑みが戻らないのは何故なのか。瞳の奥に沈みこんだ哀しみの色が、消えていないと感じるのは、何故なのか。
キポルオは弟を映すその瞳を、僅かに細めると、言った。
「今この神殿では、与えられた役が放棄されている。……そうだな」
声色低く、その響きは人を縛るような威厳さえただよわせる。
セトは意味を図りかねて眉をひそめた。
兄は言った。この地下は、ウシルの死後より与えられた役を負うのだと。それは、ウシルの開いた冥界ドゥアトへと通じる、門。この世とあの世を隔てる“冥府の門”。それを守ることだ、と。
セトは天井を仰ぎ、そこに広がる闇を映す。どこまでも続きそうな闇の向こうには、父の下ろした樹の根が張り巡らされている。
「冥府の門は、閉じられるべきもの。そして、お前はそれを知りうるもの。――立ち上がるもの、その足として名を得たのならば」
キポルオがそう加えると、
「まさか……」大きく目を見開き、セトは兄を映した。「この根を切れと、いうのか――?」
無意識に、その首を左右に振っていた。信じられない。信じたくない……!
「兄上は……兄上は忘れてしまったのか!? この根は父上が……その命に代えて下ろしたものだ!! 『宝珠』のために……そうだ、この根は下ろされるべくして、下ろされたんだ!」
「それが、今もここにある理由にはならない」
キポルオは険しい表情で言い放つ。
セトは苦しげに顔を歪めた。兄は戻ってきたのではなかった。変わらぬ言葉で、今も自分を責め続ける。
「なぜだ……なぜなんだ兄上!! 生命神の正義を、父上を――いや、俺自身を、どうして否定しようとするんだ……っ」
何故、あのころに戻れないのか。なにが、変わってしまったのか……?
「兄上は知らないんだ、この根は生命神に力を与え続けているということを……! 『月』の力を用い、『予言書』に記された勝利をつかむため、そして新たな世界の秩序を構築するために、その力は必要なんだ……!」
しかしキポルオは、ただ無言で首を振る。セトは髪を掻き毟らんばかりに声を張り上げる。
「いったいなぜ兄上は、太陽神側の肩をもつんだ! 生命神に力を与えてはならないというのか……っ!? 千年前のことを話してくれた兄上が、なぜ!」
言葉には応えず、キポルオはじっとその瞳でセトを見据えている。
揺るがずに、奥から捕らえてくるような瞳にあてられ、セトはごくりと唾を呑んだ。なぜと問うた言葉が、自身の中で繰り返される。兄が太陽神側に向かった理由。戻らない理由。ずっと考えてきた。答えは今も出ない。ただ――ひとつだけ、はっきりとしていることがある。
「兄上……。あなたは何度も俺に、真実を見ろと言った。俺にはその意味がずっと、分からなかった。けれど……そうだ。真実なんて、分かりきってる。『大地神ゲブ=トゥム』の神位は、本当は、あなたのものだ。俺は……兄上が望んだから大地神になった。ただそれだけなんだ……! 俺が大地神であるために、兄上がここに戻らないというなら、――こんなもの、俺には必要ない!!」
「セト……!」
キポルオが初めて声を上げた。悲痛に響くその声に、セトはびくりと身体を揺らす。
眉間にふかく皺を刻み、苦しげに目を閉じたキポルオは、しばらくして静かに、口を開いた。
「……ゲブ=トゥムの剣を、持て」
低く洩らした声。薄く開いた瞳には、底の知れない闇の色。
「その剣で、私との繋がりを――断て」
セトの瞳が、その枯葉色が、言葉なく開かれてゆく。
愕然と、セトは兄の顔を見た。その言葉を、脳裏で繰り返す。息を張り、時を止めたように動きもなく。
――できるわけがない。この繋がりをなくしてしまったら、自分は……。
混乱のうちに捉えた、何かがうごめく気配。闇のうちから複数の蛇が這い寄るような、床をすべる音。
「……!」
木化した蔓のようなものが突然、いくつも地から湧き出し、瞬く間に伸び上がると、まるで意志を持った触手のようにセトめがけ襲い来る……!
「兄上!」
叫びと共に剣を薙ぐ。蔓はバラバラに断ち切られる。
セトは激しい困惑にとらわれる。敵対する立場にあっても、兄は今まで一度も攻撃を仕掛けてくることはなかった。それなのに……――
しゅ、と音をたて、再び立ち上がる蔓が背後からセトに迫り来る。
セトは何かの間違いだというように兄を見上げた。青い闇にたたずむ兄の瞳に、しかし求めるような迷いは一切見当たらなかった。そこに見えるのは、強い決別の意志。敵を前に、そのすべてを拒もうとする目。
「あに……うえ……」
もう、戻ることはないのか。兄弟であることすら、認めないというのか。
敵として争うしかないのか。また自分のもとから、去ってしまうのか。
戻ってきてほしい、それだけなのに――過去のような平穏を取り戻したい、ただそれだけなのに――!!
「……そうだ……」
ゆらりと地に立つセト。右にぶら下がる腕の先には、重々しく地にくい込む黒い刃。
「そうだ、兄上……もう、行かせやしない……。ここは、俺たちの場所だ。兄上はこれからも、ずっと、ここで……」
その枯葉色は、兄を映してはいなかった。声はうわずり、目は血走ってぎょろぎょろと闇を這う。口元が引きつり、剣の柄を握る腕は不自然なほどにがくがくと震えている。
「あ、あにうえ……あ、に――」
がちがちと歯を鳴らし、笑っているとも泣いているともつかぬ顔で、セトは兄を見た。狂気に満ちたその形相、しかしキポルオは身じろぎひとつせずそれを見据えたままだった。
セトの背後にゆらめく無数の蔓が、一斉にセトに向かい腕を伸ばす。
「ううおおをおをおおこぉおおおおオアああ!!」
セトが地を蹴る。歪んだ顔に開かれた口が何かを喚きながら、走る。伸びる蔓がその軌跡をいく筋も描くように、それを追う。
「ああああにうえええぇぇぇぇぇ……!!」
柄を両手で握り引き寄せる。追いつき絡みついた無数の蔓。闇のうちにこだまする叫喚。そして――
あとに残る、暗闇と静寂。
ゆらめく青のほかには、何もかもがその動きを止めていた。
そのうちに混じる、滴り音。
生暖かい感触に、セトは目を開いた。巻きついた蔓は、腕を、足を絡めとり、身体の自由を奪う。
何が起こったのか分からなかった。ぽちゃり、ぽちゃりと音をたてるのは、彼の両腕から伝うもの。生暖かいそれは、剣の柄を……いやもっと上から、その黒の刃から流れ出るもの。
作品名:睡蓮の書 二、大地の章 作家名:文目ゆうき