睡蓮の書 二、大地の章
(地下への道を開く。お前が求めるものを、取り戻すことができるように)
地がマグマのように沸きあがり、弾けるようにその破片を散らすと、深くえぐられたような穴が開き始めた。それは渦を巻くように削り取られ、深く深く、地下に開かれた空間へと向かい広がりゆく。地の揺れは激しく、それは閉じられた空間であったその場の天井を砕き、巨大な石の破片を雨と降らせる。
現実の騒乱とはうらはらに、シエンの心はまるで南の森の深い影の内にいるように和いでいた。
ふと、父のことが思い出される。
顔も知らぬ父。生命神を、実兄を裏切り、敵であった母と結びついた父。
その形見の髪飾りに織り込まれた茜の色は、父の最期の意思であったと、姉が教えてくれた。
母が自分を見るたびに、父に似ていると言ったこと。今になって、それを認めることができる。父と同じ方法で、自身の姿をそのつかさどるものに変え、果てようとする今になって。
父さん、あなたは……、
何もかも、知っていたのじゃないだろうか。
大地神より繋がるその血が、太陽神側に残されるということ。それがどんな結果をもたらすのかを。
命に代えて残したものは、その血を引くものの手に、剣を握らせるため。
その父が、自分の存在を否定したなんて、あるはずがなかった。
……もっと早くに気付けばよかった。けれど結局、自分にとっては身に余る力だったのかもしれない。
(ごめん、姉さん。そして――)
地下へと向かい広げられる大穴、押し広げようとする意思を、生命神がその強大な力で圧してくる。広げ進めようとする力と、押し戻そうとする力の拮抗――その意識の端で、シエンは最後の力、最後の意思を、生命神の元へと向かわせた――
……そのとき。
突然そこに――信じられないことに、
第三の力の、介入があった。
それはまったく別の次元から、割り入るようにしてその場に現れると、地に満ち広がろうとしていたシエンの力、生命神に襲いかかろうとしていたその力のすべてを、逆方向に押し戻した。
放出し尽くし空になったところへ、急激に押し込むようにして戻された自身の力に、シエンは意識を宙に投げ出されたような感覚をおぼえる。
現実とはひどくかけ離れたその感覚。魂だけの存在になったような、奇妙な浮遊感の中で、シエンはひとつの大いなる意思を知る。
それは、大地の意思。
広がりゆく力は確かに自身のものであって、
それでいて、けして自分自身だけのものではない。
そこにあるすべてを包む力を知ると同時に、自分自身すら、その存在の一部に過ぎないということ。
天の下に横たわり、四肢を岩壁として世界を隔て、
重ねてきた時の記憶、その眠りを守るもの。
ときに厳しく立ちそびえ、生命のすべてを拒むもの。
内包する生と死を、その身のうちに繰り返させる大いなる“存在”、その足下に“横たわるもの”。
大地の、理《ことわり》――。
そして、その中に、
シエンはほんの微かな“不在”を知る。
ことわりを無視した“もの”。
北の地の奥深くにあるそれは、樹のかたちをした、混沌の主の姿。
ゲブ=トゥムの剣が、手の内で脈動する。
断つべきものである、と――。
*
(……何が起こった――!?)
神聖な場に通じる厚い扉の前で、
セトはこの神殿の地上部で起こされた力の衝突と、その後の強大な力の放出を捉えていた。
大地そのものを己の意思と化す大規模な力。地属の長のみが成しうるそれは、シエンのものに違いなかった。
この場を動けない歯がゆさや苛立ちも、その力の前にあっさりと消え去っていた。命を投げうった力の放出の前には、どのような力も抗えず呑み込まれるばかり。生命神の力さえ、それを超えることは容易ではない。こちらに向かおうとするその力に、セトはただおののくしかなかった。しかし――
突如、その力が消え去った。……いや、その力だけではない。対抗する生命神の力も、その側近らのものも、何一つ感じられなくなってしまった。シエンについては、今はその気配すらない。
(消滅したか――?)
しかし、何かおかしい。どの気配にも、動きがまったく感じられない。それはまるで、時が止まったかのように――。
「……!?」
セトははっと息をつめた。
ひとつの気配を、扉の奥に捉えたためだ。
この扉をくぐることなく、この自分にまみえることなく、神聖な場に現れた存在。そこにあるべきは、生命神ドサム・ハピただひとり――しかしこの気配は、その大いなる力の主のものとは、違う。
警戒に身を固め、セトは厚いその扉を開いた。呑まれるような闇、その奥にさざなみうつように灯る青の光、そして……その光の傍らに、人影を見る。
セトの瞳の枯葉色が徐々に開かれる。揺らめく青が、闇にたたずむ人物の顔を照らした。
「あ……あに、うえ――」
洩らした声は震えていた。
セトの足が一歩、また一歩と、その神聖な空間に踏み入る。動くことなくこちらを見据えるその人物は、疑いようもない、彼がずっと求めてきた兄そのひとだったのだ。
「戻ってきてくれたのか、兄上……!」
セトが駆け寄る。弟を映すキポルオの瞳には今、いつものような影がなかった。けれど、昔のような笑みもない。ただ凛然と立ち、そうしておもむろに口を開く。
「不在の内よりはじめに起立し、存在を形作るもの」
は、とセトが身体を揺らす。その声はまるで兄のものではなかった。いや、声といえるものであるかどうかも、分からなかった。
「その息をして天地を分かち、世界を在らしむもの」
その言葉は耳ではなく直接その身に響いて、ずっと深くに沈んでゆくよう。
「大地神セト・ゲブ=トゥム。原始の丘より切り出され、その足たるものの手となり、在を不在へと帰すものは、何か」
名を語られてもなお、意識が深い闇をさまよっていた。次第に浮かびあがる意識の中で、うっすらと形を見せたもの。
「それは……」
言葉の意味や理屈をこえて、取り戻した意識のうちにはっきりと示されたその答え。
「それは、これだ――」
セトの意思に応じて現れる黒刃の剣。幅広の重々しい刃を地に刺し、セトは赤い柄を握る。それが間違いなく自身のものであると、誇らしげに示すように。
キポルオはうなずくように、その瞼をゆっくりと上下する。
「セトよ、お前がその剣で絶つべきもの……その剣でしか切れぬものとは、何だ」
繰り返される問い。セトはためらいなく答えた。
「この剣は、この世にあってはならないもの、ことわりに背くものを、切る」
そうしてその口元に笑みを生む。
「そうだ、この剣はあいつを……あってはならない存在を、絶つものだ……!」
枯葉色の瞳をたぎらせ、セトは叫んだ。
キポルオは静かにその瞳を閉じる。
「……セト、覚えているか」
そして彼は、先ほどよりいくぶん柔らかな声色で、弟に語りかけた。
「私はこの神殿が、そして地下が、どのような目的をもって建立されたかを、お前に話した」
セトはまたたき、兄を映す。そうして、幼いころ聞いていたのと同じ優しく穏やかなその声に、うっとりと浸るように目を閉じた。
作品名:睡蓮の書 二、大地の章 作家名:文目ゆうき