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文目ゆうき
文目ゆうき
novelistID. 59247
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睡蓮の書 二、大地の章

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下・大地の剣・5、生命神ハピ


 
 生命神ハピ――北の主神、大いなる流れとその恵みの主。
 シエンは無意識に剣の柄を強く握る。考えうる限りで最悪の状況だ。水属の力と共に地属の力をつかさどる相手に、自分の力がどの程度通じるか――。
 生命神の左右にある神のうち一人が動きを見せた。シエンはとっさに膝を折り、足元の床石や土砂を引き上げ壁を作る。直後、闇を反転させるような強力な光が空間を満たした。
(奪視の光――『輝神ヘル』か……!?)
 地の壁が広く視界を覆うことでどうにか影を作り出し、シエンは敵の攻撃を防ぐ――ところが、その壁は突如、砂と化してざらざらと流れ落ち、シエンとキレスの二人は突き刺さるように放たれる光に晒されてしまった。腕で覆うくらいではこの光は防げない。そうして視界は完全な闇に閉ざされてしまった。
 次いでもう一方の神が力を示した。どおと地が低く鳴り、辺りを包む空気が湿気をふくみ重くなる。シエンは今いちど地の壁を生み出そうと試みるが、それは生み出された端から砂と化して地に沈められる。シエンが地の守りを失ったと知り、キレスは自身の結界を広げ彼をも包み込んだ。
 キレスの透明な結界に覆いかぶさるように、大量の水流が押し寄せる。飛沫をあげ結界を削る音が充満する。キレスは突き出した腕の先に集中し、それに耐えている。
 ところが――キレスの結界さえも、泡が弾けるようにように突然、音をたてて消えてしまった。まるで外側から針をつつかれたように消え去った結界……それ以上に身を守る術もなく、シエンとキレスはうねり湧き上がる水に呑み込まれる。
 水流にもまれ、四肢がバラバラになりそうな感覚の中、シエンは辛うじて底の地を盛り上げ取っ掛かりを作る。それを基に力を束ね、水流にも動じない岩を作り上げるとどうにか水上へと脱した。
 呼吸を整えながら、シエンはキレスの気配を探る。水流に遠く押し流されたその存在を捉えると、地を伝い力を届け、その周囲に岩を起立させ、水流を堰き止めようとした。
 しかしそのとき、キレスの気配が忽然と消えた。
 はっと息を呑み意識を広げる。目が見えないために、なにが起こったのか把握できない。彼が瞬間移動を用いてここから逃れたのならいいのだが――
「う……ぐぅ、あ、あ……」
(……!!)
 苦しげに洩らす声は確かにキレスのものだった。ふいに水流が収まり、足下の水が引いていく。シエンは離れた位置から届く声に、意識を広げ気配を探る……だが、キレスの気配はやはりつかめない。
「『月神アンプ』――」
 落ち着き払った、澄んだ声を聞く。感情らしいものを感じさせない、若い男の声だ。
「今のお前の力、この程度か」
 淡々と続けられるその言葉に、キレスはただ呻きを洩らすばかり。
 シエンは激しい焦燥感に駆られた。キレスの身に何かが起こっている。彼を縛る力があるのだろう、けれどその力さえもつかむことが出来ない。どれほど危険な状況なのかが把握できない……!
 キレスの居場所がつかめなければ、力の元を断つより他ない。意識すればその手に剣はいつでも握られる――だが目が見えない今、接近戦は無謀といえた。シエンは遠くに捉えた敵の気配に向かい、その力を放出した。水を吸いやわらかくなった地が波立ち、響き渡る轟音と共に土砂岩石を散らし、その力は距離を縮めるほどに強さを増して敵に襲い掛かる……!
 しかし……その力もまた、押さえ込まれるようにして地に沈められ、生命神らのもとへ至ることはなかった。
 敵側から放たれた力を地の壁で阻みながら、シエンは絶望に似た感覚に身体を縛られていた。
 束ねたエネルギーの波を抑え無効にする力――それは以前、シエン自身がセトに対して用いていた方法と同じだった。起こそうとする意思の広がりの上から、眠らせようとなだめゆく力。けれどそれも、セトが力を抑え戯れに用いるものまでしか通用しない。同属の力を静めるためには、相手の意思を押さえ込むための、より強大な力をもってしなければならない。
 ……これが、生命神の力。
 地と水、両属の長の上に立つもの。……地の長たる自身の、上に立つ力。
 渾身の力を込めてしても、抑えられてしまうほどの強大さ。まるで歯が立たない。いや、次元が違う。
 どのような力を用いようと、結果は同じ。手も足も出ない、この無力感――
「……は、なせえぇ……っ!」
 喉の奥から搾り出したような、キレスの呻きが届く。
 それが、身を縛っていた諦めの感情を引き裂き、シエンの中の何かを、強く打ち鳴らした。
(俺は……)
 意識が急速に束ねられるのを、シエンは感じた。
(何をしたい。いったい、何が出来る)
 ここにある自分自身の、この力。この持つすべてを用いて。
 自分自身が本当に求めるものは、何か。
(俺は……守りたい)
 ――そうだ、守りたい。
 ただ、守りたい。それだけだ。
 歪んだ自己顕示欲。白い皮をかぶったエゴ。本当には、それは他を守るためではない、保身のためなのだと……その醜さを知っても、なお。
 この意志だけは、やはり否定することができなかった。
 もう何もいらないと思っていた。自分には何も必要ないと――けれど、どんなに抑えても抑えても、それは消え去ってしまうことがない。
 存在価値。……そう、守ることで、それを認められたいだけだ。
 過去のすべてを否定してしまうのは、あまりにも苦しい。今までを白紙に戻すことなど、できるわけがない。
 自身の生をどれだけ否定しようとも、現実には確かに生きている。そうするとき、自身の醜さを認めても、それでも、手を伸ばし求めずにはいられないものがある。
 何かを、誰かを守ること。そうして、守られること。
 それが、なにも偽ることのない、自分の意志。自分の、真実。
 どうせ同じ、死へと向かうなら、求めるものへと手を伸ばしていたい――。
 抑えていたものを解き、ほんとうの自分自身と向き合うとき。しっとりと落ち着き浮かぶ意識の中に、シエンはわずかな光明を見る。
 ……この状況を打破しうる方法が、ひとつだけ、ある。
 シエンは静かに呼吸した。そうして、その意識を彼の足下へ、そこに横たわる地へと広げゆく。
 じんわりと、自身の肉体への感覚が曖昧になってゆく。地の底が低く唸りをあげ、それは徐々に大きく、広く響き渡る。
 生命神の力を超える、唯一の方法。それは、自身を完全に地と同化させることだった。
 自身の意思が、大地そのものの意思となれば、今までのように他の介入を容易には許さない。阻むものなく、自身の力を示すことが出来る。ただしそれは、力としての意思をすべて解き放つと同時に、己の存在が死を迎えることを意味していた。
 死へと向かっている――それなのに、なぜだろう。心がひどく穏やかなのは。
(キレス、俺にはこうすることしか出来ないけれど)
 鳴動はさらに大きく、激しくなる。床石は砕け散り、むき出しになった岩盤に亀裂が広がる。地の底から突き上げるような力が大地を割り、大小の突起を生む。
「な、に……っ」
 生命神の声に動揺の色。キレスを縛めていた力が解かれ、気配を捉えることができた。上空から地に向かうキレスの身体を、シエンはその意思で生じさせた砂に包み込む。