睡蓮の書 二、大地の章
セトが執着する、太陽神側に現れたもうひとりの地の長。存在を聞いてはいたが、このように若いとは。
(月の捕獲は、そう簡単とはいかぬようだな……)
ベスも四大神の一人としての自負はある。しかし、根拠なく自身の力を信じるほど若くはない。その重ねた年は、力の点ではマイナスになろう。さらに悪いことに、敵は自身と同じ最高位の称号を得たもの。補助の力を誇る風属は、単独で他の属性を超えることは困難だ。戦況を不利と見たベスは、援護要請のため精霊を呼びつける。
しかし、シエンはいつまでも黙って立ってはいなかった。すと膝を折り、地に着くその手から力を送り込むと、彼の意思に応えて幾本もの砂の柱が立ち上がる。それらは、ベスの精霊たちを貫くようにして次々と消し去った。
精霊を貫いた柱は、その役目を終え崩れ去るかに見えたが、砂粒は地に落ちる前に寄せ集められ、津波のようにベスに押し寄せる。大口を開け呑み込まんとする巨大な砂の塊に、ベスはその身を風の渦で包み込むようにして守っていた。なだれ込む砂が、風に散らされ視界を覆う。
攻撃はそれで終わりではなかった。その砂煙に身を隠し、シエンは引き上げた砂の柱を足がかりに高く跳躍したのだ。
ベスはとっさに身を包む風の力を強め、退ける。弾かれるようにシエンの身体がのけぞる……と、散らされた砂の一部を引き寄せたシエンが、砂を蹴って回転し、その勢いにのせて剣を下から引き上げた。
「ぐぅ……おおぉっ……」
砂の間に飛び散る鮮血。シエンの右手に握られた翠緑の刃は、その刃先から赤を滴らせている。
ベスの身体から激しい風が生み出され、シエンと共に砂煙をざんと振り払う。宙に身を投げ出されたシエンは、地から引き上げた砂に身を包み、ゆっくりと地に降り立つ。
ベスの背を斜めに走る傷。血は白い衣を、足を伝い、濁りきった水面へぽちゃぽちゃと音を立てて落ちた。
「く、う……っ、お、のれ……」
低く呻いたかと思うと、ベスの身体から激しい爆風が生み出され、天地を縦横無尽に翔けめぐる。
地を揺るがせ、轟かせるほどのその力は、川の水をしぶきに変え、川辺に茂る豊かな緑を引き裂き巻き上げ、むき出した黒い土を引き上げる。地上のありとあらゆるものを引き剥がそうというように、ベスは風属の長たる自身の力を見せ付けた。
その力を防ぎきれなかったのか、シエンの身体が宙に放り出された。渦巻き立ち上る爆風は、今やベスの身を広く取り巻く巨大な竜巻となっている。
その渦に飲み込まれたと思われたシエンは、しかし忽然と姿を消し去っていた。
それを注意深く捉えていたベスは渦巻く力を収め、代わりに彼の力が引き上げた大小の岩々を風の刃で砕いてゆく。そうしている間に、砕かれた石の欠片が引き寄せられ、地より連なり立ち上がりはじめた。まるで意思を持っているかのように次々と欠片をつなぎ合わせ、ついにベスの背後に影を落とす。
(地に同化したのだな……。その身ごと砕いてくれるわ……!)
ベスは素早く翻り、渾身の力で風を束ね、そびえる石礫の塔を砕き去る。
四散する石の欠片に目を凝らし、姿を見せるに違いない敵を探す――しかし一瞬の後、背後に捉えた力の存在にベスは戦慄する。シエンが同化していたのは、石礫を集わせた塔ではなく、漂う幾多の岩のひとつだった。
ベスが振り向きざまに放とうとした力は、しかし間に合わなかった。背に負う怪我の痛みが、判断を遅らせた。
空中に姿を現し、ただよう砂礫を集わせ足場とすると、シエンの右腕が、その先に握られた剣が、ベスの脇腹を水平に薙いだ。
刃の、そして瞳の翠緑に、赤い鮮血がひろがりゆく。
声ともつかぬ低い呻きの後、ベスの口から血がわき出る。もはや身を留める力も失い、上下に分かれた身体が赤い糸を引いて地に向かう。
それよりわずか早く地に着いたシエンは、草むらに音を立てて沈み込んだ北神の亡骸を振り返ろうともしなかった。
キレスはもう事切れていると思われた北神の、赤に染まった上半身が、落下時その片腕を切り離そうとしたのを見た。生への執念なのだろうか、その不可解な行動が異様な死姿を印象付ける。
そして自分に近寄る友人の姿を改めて、映した。
シエンの表情は無というより険しく引き締められていた。鮮やかに彩られた瞳が敵を抑え付けるような輝きを見せる。その緑を引き立てる返り血の色。
キレスは息を呑む。これは、本当にシエンなのか。何かをじっと見据え、揺るがない瞳……それは強さよりも、どこか不吉な、破滅的なものを感じさせた。
シエンが無言でその腕を伸ばしてくる。キレスは思わず身を固め、逃れるように腕を引いた。が、シエンは強引にそれを掴むと、傷口に治癒の術を施していく。表情を変えることもなく。
「どうやって侵入するつもりだ」
一通り治療が終わると、初めてシエンが口を開いた。事情を何もかも把握しているというその口ぶりに、キレスは一瞬答えをためらう。
「……結界を、溶かす」
神殿に接近したところで、あの強固な結界をすぐに突破する方法などない。ひと月前この神殿上空で試したあの方法、それが結界を打破する唯一の方法だった。
「時間がかかるんだろう。そうしている間に、敵に囲まれる」
「他に方法、ねえんだよ」
目を逸らし、苛立ちの色をまぜて声するキレスに、シエンはゆっくりと息をつくと、
「急ごう」遠く霧の向こうに浮かぶ白い建物を見遣り、言った。「すぐに応援が駆けつけるだろう、お前は結界を溶かしていればいい。北神は俺が、相手をする」
そうして膝を折ると、シエンは促すように一度キレスを映してから、姿を消し去った。
キレスは困惑を隠せなかった。いつものシエンなら、連れ戻そうとするに違いないのだ。何のために力を貸そうとしているのか……?
しかし理由などどうでも良かった。確かにシエンの力は有用……いや、今の自分にとってなくてはならないものだろう。記憶を取り戻すために――。
キレスは迷いを振り切るように、瞬間移動の術を用いた。
キレスが神殿入り口に現れるとほぼ同時に、敵の接近を察知した北神らがわらわらと上空に、また水上に、現れた。
たった二人に対し、何十もの敵の数。呆然と見渡すキレスの視界を、黒い土が遮る。シエンは少し距離をとって土の壁を立ち上げ、遠隔攻撃の軽いものを防ぐつもりだ。その壁は早速、いくつかの攻撃を受け止めていた。壁を越え上空から狙うものに対しては、土の柱を立ち上げ攻撃を加える。
キレスはふっと息を吐くと、神殿を包む不可視の結界を見上げる。求めるものはこの奥に――キレスはその手で、門扉に施された結界に触れ、そこにある力を静かに拡散させようとした。
そのとき。
キレスの示した力に応えるように、いや実際にはほんの一瞬遅れて、その結界がぐらりと揺らいだ。
はっと目を張り、キレスは結界の様子を観察する。
やがて、信じられないことに、――門扉が音もなく、開きはじめた。
まるで招き入れるように開かれてゆく扉。息を殺して見つめていたキレスは、その扉の奥、闇に溶けるように浮かぶ、少女の姿を見た。
透き通るような白の肌をした少女。幻のように浮かび上がるその姿。
(睡蓮の……精霊)
作品名:睡蓮の書 二、大地の章 作家名:文目ゆうき