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文目ゆうき
文目ゆうき
novelistID. 59247
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睡蓮の書 二、大地の章

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下・大地の剣・4、侵入



 北の様子は、ひと月前とは違っていた。
 枝のように筋分かれしていた大河が増水によって溢れ、北の神殿は水上に遠く浮かぶ白い島のように見える。神殿前に立ち並ぶ幾十もの柱が水を突き抜け立つさまも、薄闇にただよう霧の奥に、ただぼんやりと映るばかり。
 その、北の神殿からしばらく離れたこの上空に、北の風神ベス・メンチュ=アムンの姿はあった。
 こけた頬、引き締めた口の端に刻まれた皺。先の戦ではすでに先導する立場にあったろうその男は、まるで体重を感じさせないふうに宙にとどまり、じっと地上の様子を観察している。……いや、見ていたのではない。彼は意識を広げることで、敵の存在を捉えようとしていた。
(たった一人で……何のつもりか)
 ひと月前の敵襲をうけ、北神らは警戒を強めていた。あの騒ぎが、生命神の下にある精霊の行動が引き金になったと知る今も、少なくとも生命神が例の儀式を終えるまでは、油断ならないと考えたのだ。
 ベスは用心深い男だった。他のものが門外の警戒にあたっていれば、おそらくこんなにも早くキレスの存在が気付かれることはなかったろう。ベスは目の届く範囲そして守備範囲は当然に、さらに力を用いて広範囲を探っていた。
 それでも、ベスははじめそれを敵と決めかねていた。なにしろ、彼は気配や力の存在を捉えたのではなかったのだ。彼の力の及ぶ範囲――天と地の間を満ちる大気――に、ぽっかり空いた穴のようなものを感じただけだった。まるで、そこには何も――大気さえも、ないというように。
 風を操り、遠隔に伸ばした手で掻くようにその場所を確認すると、空いていたと思われた穴、大気の“虚無”が消え去る。注意深く意識を広げていると、また別の場所に、同じような“虚無”を感じる。二度繰り返して、そこに意思が働いていると確信する。三度目には、正体不明なその穴に近づき、より強い風で引き裂くような力を放った。そうしてついに、視界を阻んでいた膜のようなものを引き剥がし、敵の存在を目視するに至ったのだ。
(しかし、あれはいったい何者か……?)
 敵はすぐにまた姿を消した。その瞬間に、ベスは疑念を強くする。……姿を消す、つまり何らかの力を用いたその瞬間に、何一つ感じられるものがなかった。放出するエネルギーというものが一切、感じられないというのは、奇妙なことだ。その力が小さすぎて捉えられないとは考えにくい。敵は自身の力で自由に移動し、またその姿さえも隠す術をもっているのだから。とすれば、敵は四属ではなく、知か、月――
(まさか)
 不吉な予感が胸をよぎる。
 数日前のことだった。彼の娘である知神レルは、今年新しく記された「予言書」の内容を公表した。今代の生命神のもとで実現される内容を示していることは疑いようもない。そしてそこには、「月」の存在を示すような文が記されていたのだ。
(そんなはずはない、十年前、わしは確かに――)
 ――敵を捉えた。ベスはすばやく上空を翔ける。次は確認のための生易しい力などではない。
(どのみち、生きては帰さんぞ……!)
 ベスは巨大な翼を広げるように両腕を左右に伸ばす。そして羽ばたくよう振り下ろされたその腕から生み出された風は、なにもない地の一点に向かい、激しく振るわれる無数の鞭のように宙を引き裂く――否、そこに在る見えない膜を削りあげる。
 程なく、消耗した膜が弾け散り、キレスがその姿を現した。
 姿を消す間を与えぬというように、ベスはなおも風の鞭を浴びせ続ける。その力に、キレスは長い黒髪を巻き上げるようにして宙に打ち上げられた。
 その瞬間――ベスははっと息を呑んだ。
 キレスの露呈した首もとに見える、赤いビーズ飾り。それは十年前、ベスが負ったある任務のために捕らえた少年の、首もとを飾っていたものと、同じ。
 ベスの目が大きく見開かれ、疑いは確信に変わる。
(やはり『月』か! 今度こそ、逃しはせんぞ)
 しかし、ベスが力を収めたときにはすでに、キレスの身体は河に投げ出され、あっという間に水に呑み込まれていく。
 わずかに水面に浮かんだ血液はすぐに散らされ、波も波紋もすべて吸い込まれるように消え去った。広がる静寂。
 ベスは舌打ちをした。水の中にあっては、その位置を捉えることもかなわない。浮かびあがらないところを見ると、意識はあるようだ。また移動しているかもしれないとあたりを探るが、その様子はなかった。
(小癪な……死んだふりでもするつもりか? ――十年前のように……!)
 水面近くまで下り、ベスはその腕で引き上げるように空を裂く。生み出された風圧に、水面が大きな窪みを見せる。激しく波立つ水、躍り上がりもがく魚たち、押しつぶされたように地に張りつく葦やパピルスの群れ、そこに生み出されたあらゆる音をかき消す豪風。
 その力は川底近くの様子までさらけ出す。彼はそうして、水中に潜む敵を見つけ出そうとしていたのだ。
 そしてついに、ベスの力が目に見えない何かを捉えると、その直後、キレスは水を抜け出て舞い上がり、はっきりとその姿を現した。
 ベスと同じ高さに身をとどめるキレスは、赤い筋を引く傷を所どころに負っている。肩がわずかに上下するのが見える。その紫の双眸がこちらをじっと見据えてくると、ベスは訳もなく胸騒ぎを覚えた。
 それを振り切るように、ベスの両腕が突き出される。
(生かして捕らえようにも、無傷というわけにはいくまいよ)
 風の力がほとばしる。しかしそれは、キレスの前で見えない障壁にぶつかり、そして腕を払うような彼の動きに応え、術主に跳ね返された。
 襲い来る風の力を、しかしベスは引き寄せるように自身にまとう。
「ほおう。遮断または反射の力、か。やはり聞き及んだ『月属』の力そのもの」ベスはにいと口の端を引き上げた。「しかしそのような力では、このわしに傷ひとつ負わせることは出来んぞ」
 彼は確信していた。敵は手負いだ、半分ほどに抑えていたこの力を8割近くも解放すれば、反射の力も及ばぬだろう。
 ベスはキレスとの距離を開き聖杖を握ると、意識を集中する。肩に流れる艶を失った黒髪が逆立つ。身を包む白の衣も、まるで天に引き寄せられるかのようにゆらゆらと立ちのぼる。
 そうしてベス自身から幾千もの腕を広げるように風が生み出され、その筋は素早く孤を描いてただ一点を目掛け空を翔ける。そうして風は勢いを増してゆく。
 距離を開けばそれだけ、威力が大きくなる術――しかしその距離こそが、この術の弱点でもあると思い知らされたのは、その直後のことだった。
 的へと向かう力は、今までと違いはっきりと目に映る障壁によって阻まれたのだ。
 真下に広がる河、その水底から引き上げられたような、黒々とした泥土が視界を覆う。次々と引き上げられた泥が繋がるように広がりゆき、ベスの放った風の力、その鋭い牙を食い止めた。鈍い音を連ねすべての牙を受け止め終えると、泥は崩れるように地に落ち、河の水を濁らせた。
 激しい怒りの色を差し、ベスはこの場に現れたもう一つの力の存在を見据える。
 姿を隠すことも、気配を消すこともなく、その男は対岸の草むらに立つ。その瞳の鮮やかな緑色に、ベスの顔が強張った。
「『大地神ゲブ=トゥム』か」