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文目ゆうき
文目ゆうき
novelistID. 59247
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睡蓮の書 二、大地の章

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下・大地の剣・3、守るために



 中央神殿の奥に備えられた一室。
 部屋の扉を閉じきると、シエンは張りつめたものを解くように、ゆっくりと、息をついた。
 会議室からここまで、どうやって来たのか覚えていない。ただ他者の感情にあてられることを避けたかった。早く、一人になりたかった。
 陽が西の岩壁にかかり、赤い光の筋が天井近くの明り取りから注がれる。それ以外は灰色だった。
 シエンは灰色の影にたたずむ。扉を背に、ただじっとそうしていた。
 心が、外からのあらゆるものを拒んでいた。胸は重たいもので満たされ、何を入れようとしても無駄だった。
 自分自身を構築するものが偽りだらけであると知り、それを剥がしても剥がしても、本当のものが見えてこない。……しばらくして、そんなものありはしないのだと、気付いた。
 空っぽの自分。何も、なにも持っていない。
 唯一、確かなことは、自分がここに存在しているという――最も認めたくない、事実。
 この存在がいったい、何になる……? 
 自身の存在が、力が、立場が、正しいものであると信じ、さまざまな求めに応え、それにすがって生きていた。そうして認めを得、安心していた……それだけだ。
 存在は、虚栄に満ちている。何かのためであると装って、保身のために行動する。どこもかしこも、そんなもので溢れている。自分自身でさえ、そうだ。
 これは虚栄などではない、本当の、あるべき姿だと、騙してくれるものがあればよかった。人間のように、ただ“神”の意思であるからと信じることができれば――疑うことを知らずに突き進むことができれば。それほど強くなれずとも、運命を恨もうとすれば、それを押し付けたとされるものを罵倒することくらい、できたはずだ。
 けれど、そんなものは、求めようがない。
 分かっている。これらを選ぶのも、生み出すのも、他の何者でもない、自分自身だ。
 醜いものがすべて、自身からにじみ出ているものと知れば、どのような清めの言葉も塵のように軽い。白い布でどれだけ拭き取ろうとしても、次から次へと汚れるばかりできりがない。そこから、目を覆うことなど、できはしないのだ。
 ……疲れた。
 崩れ去った価値観の残像が、遠くから自己を見つめている。限りなく醜いものを見るように、そうして、これはあってはならないものだと言う。
 絶つべきであると。
 けれど――そうだ、自分は、弱い。こんなにも臆病だ。
 この場に立ってなお、生にしがみ付こうとしている。
 死はこんなにも、鼻先で甘い芳香を漂わせているというのに、地をつかむこの足を離す気になれないでいる。
 いったい何が、自分をここに留めているのだろう……?
 ……そうだ、怖いのだ。自ら死を呼び寄せるのが。
 不実を重ね、ただ死が贈られるのを待つように、この無意味な、時を貪るばかりの醜い生を過ごす――自分には、それしか、できない……。
 シエンは瞳を閉じた。宵の薄闇の中、そのごく淡い光さえも避けようとするように。
 そうして視覚への刺激を絶つと、つい先ほどの出来事が脳裏で再生される。
 ……ケオルはきっと、怒りを収められずにいるだろう。
 言葉を変えても、その感情はまっすぐに伝わってくる。彼はそれをあまり覆い隠そうとしない。それどころか、見せ付けるようにして、こちらを煽ってくる。焚きつけるように……それは火属の持つ性質そのもの。彼の兄が火属の長であり、母もそうであったというから、いくらかそれを引き受けているのだろう。
 シエンは西で見たあの、千年前のイメージを、思い起こさずにはいられなかった。
 見下ろす瞳。人の心を煽る言葉。
 地属と火属の間にある、大きな隔たり。それは、属性間の交わりを繰り返し重ねた今でも、なお存在し続けているのかもしれない。
 瞼の向こうではイメージが流れ続けている。地の長の剣が、月の少女を切り裂く瞬間――いまだ繰り返されるその光景。
 うっすらと眼を開く。胸の前にそっと広げた手のひらに、ひとつの石。
 茶褐色の石の破片、それはたくさんの傷のような切れ目を刻んでいる。その切れ目から、微かなきらめきを放つ緑や赤。
 ゲブ=トゥムの剣の、原石。主が手にすれば、その意思で剣に姿を変えるもの。
 シエンは、地の聖域でこの石を剣に変えてから、その後一度も、剣を手にしていなかった。
 二度と持とうというつもりもなかった。それでも原石は、主である彼に応えてこうして現れる。神権をあらわす聖杖がその手に握られるように、同じ地属の神々を圧する力がその瞳に表れるように、――彼がそれを望まなくとも、原石が彼のもとにあるのは当然であり、自然なことだった。
 角ばったその石を握り締めて、シエンは再び目を閉じる。
 ……千年前、月の命を絶った、剣。
 なぜこの手に与えられたのか。――その意味を、ずっと、考えていた。
 これが姉の形見であるという事実。手放すことのできないそれは、己の積み上げた罪の証なのか。
 それともこの剣は、自分の命を自ら絶つためにあるのだろうか……そう思ったこともある。
 けれど――
 (――……)
 ぴたりと思考が止む。
 誰かが来た。ある狭い範囲をずっと意識していたシエンは、そのことにすぐ気づいた。
 その人物は気配を消さないどころか、足音すら立てて近づき、この扉の前で足を止める。
「……いるんだろ、シエン」
 そうだ、分かってた。ケオルがここに来るだろうことは。
 シエンは返事をしなかった。それを待つような間があってから、ケオルはもう一度言った。
「話がある。……出て来いよ」
 このまま黙っていても諦めるようなやつじゃない。ひとつゆっくりと息をつき、そして、シエンは扉を開いた。
 まだ開ききらない扉の狭間から見上げてくる瞳は、案の定、怒りの色を指したままだった。
「話、終わってなかっただろ。シエン」
「勝手にすればいいと言った」
 シエンは表情を作らない。ケオルは一度視線を外し、息を吐く。
「樹を探すことなんかは……別にいい。たいした根拠じゃなし、お前の言うことを信じないわけじゃない。だが――、お前があの人を信用できないっていうのは、どういうことだ」
 再び向けたその眼で、そしてその言葉で、彼は責めるように声する。
「お前、尊敬してるって言ってたよな。位の上下関係なく、あの人のようになれればいいって――それが、どうしてなんだよ。……何が、あったんだ」
 彼がそのことにこだわるのは、兄と自身との関係を、重ねていたからだろうか。彼にとっては確かに、ありえないことなのだろう。
 それを思うと、冷めた感情が胸を占める。――自分と彼が、同じであるわけがない。
「お前こそ、なぜ根拠もなく信じようとする?」シエンは冷たく言い放った。「キポルオが、お前の兄と親しいからか? ……冷静とは言えないな」
「ごまかすなよ」ケオルの瞳はまっすぐにシエンを捉え、動かない。「なぜなんだ、答えろよ」
 シエンは息苦しさに、わずかに顔を背けた。
「……お前には、関係ない」
 ケオルが口をつぐむ。それでも、彼の目はシエンから離れようとしなかった。
 そうしてしばらく射るように見つめていたケオルの瞳が、わずかに、絞られる。的を捉えたというように。