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文目ゆうき
文目ゆうき
novelistID. 59247
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睡蓮の書 二、大地の章

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下・大地の剣・1、緑なるもの



「逃げ出さず戻ったか。感心なことだ」
 冷ややかに言い放つプタハに目もくれず、セトは開かれた扉を通り過ぎる。
 北の地下にある、その心臓部ともいえる神聖な場。厚い扉に二重に閉ざされたそこは、装飾はおろか支えの柱一つ見あたらない。飾り気なく、ほとんど何もないその空間は、意図して作られたものではなく、自然に生まれた――別の力によって開かれたものだった。
 奥には、石灰岩製の四角い台が一つ、据えられ、その上に青く光を灯す球体が、銀の杯に支えられている。その球体こそが、この空間の唯一の光源となっていた。
 青い光はあまり広くを照らさなかった。光というには優しい紺青、それはまるで深い河底から見上げる水面のようにゆらめき、地を、そして宙をたゆたう。
 その光の端が、気まぐれに、台の傍に垂直に走る何かを浮かび上がらせる。蔓のような、植物の枝に似たものが数本伸び、絡まりあうようにして上から垂れ、地に達しているその様子は、まるで天が地に落ちることのないよう支える腕――脱水しきった、節だらけの、細く長い腕――のようにも見えた。腕の先、台にほど近い位置に、こぶのような奇妙な膨らみがある。それは、今代の生命神が繰り返し執り行う儀――二つの力をあわせるための――に欠かせないものだと、セトももちろん知っていた。
「そこでよい。ご苦労だったな、セト」
 もう一人の側近デヌタの声に、セトは足を止める。彼に続いていた小さな精霊たちも、主に応じるように動きを止めた。セトが顎を軽くしゃくると、精霊たちは地に沈むように姿を消した。そうして、彼らの運んでいた一枚の岩板が、音を立てて地に落ちた。
 板の上にあった長い黒髪がふわと舞い、男の顔を覆う。肉体から切り離され置かれたその首に、デヌタは表情を険しくし、弔うように目を閉じた。
「さあ行け、セト。お前のなすべきことに戻るがいい」
 プタハが声する。抵抗なくその場をあとにしたセトは、石の扉が閉じるまで、その枯葉色の瞳を神聖な場へと向けていた。
 闇に呑まれた天井部分には、蛇のように広がる無数の、樹の根がある。目を凝らし、ようやく薄っすらと浮かび上がるその様子を、セトは目に焼き付けるように見詰めていた。根は中心部分から方々へ伸び、それらがまた幾つもに分かれて、広い空間を上から覆うように、この場のすべてを包み込むように、這わせている。
 その根は、十五年前、大地神であった父がある儀式によって、命に代えてここに現したもの。……セトにとってそれは、父そのものだった。
 低い音を響かせ、石の扉が合わさる。
 セトは、二対の扉に閉じられた狭い空間にひとり、残された。彼はそこから、もう一対の扉を開いて外へ出ようとはしなかったし、それを許されていなかった。
 数々の身勝手な行動を咎められ、セトはこの場で、神聖な場の入り口を守護する役を負わされた。今回のように、聖域に残された遺体を回収するなど特別な許しを得ない限り、この場より外へは出ることができない。
 シエンが「ゲブ=トゥムの剣」を求めていると気づいた直後から、彼はそれを阻止する術を奪われた。募る苛立ちを押し込め、セトはただ服していた。彼らの主神たる生命神は、言葉だけでなく、力をもって、セトがこの場を離れることを禁じた。服するより他なかった。
(ミンの奴――)
 朝方、聖域の異変を捉えたセトには、そこを訪れたものがシエンでないと、はっきりと分かっていた。それは聖域には異質なものであったから、以前シエンを連れ戻しに現れたあの、風属の女であるに違いないと、そう考えた。
 ミンは地属の下級神ではあったが、聖域という特別な場所で、相手が属性外のものとなれば勝算はあったはずだ。実際、はじめの衝突ではミンが有利であったはず。
 ――深追いはするなと忠告していた。長引けば奴に……シエンに気付かれると。だが、ミンは従わなかった。
(自業自得だ)
 上辺の意識が生んだ言葉とは裏腹に、セトの拳は強く握られていた。彼の友人ミンの死は無駄だった。ゲブ=トゥムの剣は敵の手に渡ってしまったのだ。
 ……しかし、後悔と苛立ちの波は次第に静まり、そうして、セトの口元にはゆっくりと、笑みが刻まれる。
(運命だというのなら――それもいい)
 やっと同じ土俵に上がってきた。争いをけしかけても避けるばかりだったその男は、その臆病さゆえ、いつか勝手に堕ちてゆくだろうと思っていた。だが、奴は這い上がってきた。その手に剣を、大地神の証を握り、奴は必ずやって来る。ここへ、――必ず。
 それでいいのだ。自ら堕ちることが出来ないのなら、この手で断ち切ってやろう。それが出来るのは、俺だけだ。真の大地神である、この俺だけ――。
 望んでいたのだ。この手で奴を葬り去ることを。……大地神の名を語る偽者だというだけではなかった。いや、それ以上の理由で奴は――奴だけは、何があっても許すことが出来ない。
 ただひとつの、変わらぬ理由のために。 

      *

 その日の午後、いつもの樹にキポルオは現れなかった。
 毎日訪れているわけではないし、訪れた日にいつも会えるわけでもなかった。けれどキレスがそこに向かうときは、それを期待していたのに違いなかった。
 会えば、忘れることが出来ると思っていた。少なくともそのときしばらくは、意識しなくて済んだ。……けれどあの、連なり垂れ下がる緑葉のカーテンが覆う深い木陰で、ただひとり閉じられていると、余計に、そのことばかりが浮かんで憂鬱になる。
 シエンの姉ホリカが亡くなった、あの日のことだ。
 もう、ひと月近く経とうというのに、こうしてたびたび意識の上に湧いて出る。キレス自身が気付かないほど奥深くに、そのことはひとつの衝撃として刻まれているようだった。
 あの日、姉の亡骸を抱いたシエンは、その身体を血に染めたまま現れた。
 送ってやってくれ――そう言ったシエンの目は虚ろで、キレスを映してなどいなかった。
 「月神アンプ」であるキレスは死者の葬送を役とし、その第一は、遺体を清め整えることだった。彼にとって死を迎えた人を間近で見るのは――少なくとも今の記憶の上では、まだ二度目だった。……川辺に向かい、傷や汚れを洗い流すと、肌を生気あふれる状態に見せるよう、香油を塗りこめる。傷口を覆い隠すように、清潔な白い布で全身を丁寧に包む。そうした後、葬儀に立ち会う人々に呼びかけた。
 遺体を整えながら、キレスは美しく仕上げるというこの行為に、言いようのない虚無感を感じていた。
 白い布の中で、眠るように目を閉じたホリカの姿は、美しい無だった。美しいが、何も残ってはいなかった。ただ整えられた外側だけがあって、それまで持っていたすべては既に流れ出てしまっていた。それは死であって、もはや死そのものを超えており、もう何者でもないように思われた。
 そうした感覚は、初めて他人の死にふれたときにも得ていた。常に恐れ、遠ざけようとしているはずの死は、実際に触れてみると、心にのしかかるものをもたず、すうと静かに通り過ぎたようで……、側ですすり泣く女神たちの声も、すべてがどこか遠かった。