睡蓮の書 二、大地の章
上・血族・1、兄弟神のあらそい
眠れなかった。
昨夜は北との戦いで身体の疲れがひどく、何も考えられないうちに眠りについていたが、今夜はそういうわけにはいかなかった。
北での出来事。セトの言葉、死を思わせる強大な力、そして十年前の戦以来はじめての……犠牲。
北の動きを警戒し、シエンは今晩まで中央にとどまることにしたのだ。
広大な神殿の北東に設けられた神々の私室のひとつを宛がわれたものの、シエンにとって慣れない場所であるためか、思考も堂々巡りになるばかりで落ち着かない。
ここは、自分にとって静か過ぎるのだ。
南の神殿には、すぐそばに森が広がっている。僅かな風にも葉擦りの音は重なって、さざなみのように聞こえてくる。虫の音も絶えない。……幼いころを過ごした西の神殿にも、そばにいくつもそびえる椰子の葉が、乾いた音をいつでも響かせていた。音に違いはあっても、どちらも同じ、葉擦れの響き。身体の根深くに刷り込まれたものが、心地よい場所というものを無意識に選ぶのだろうか。
部屋を出、微かな音に誘われるように廊下を進むと、突き出たポーチの先に、四角い池が開いて見える。池の周りにある低木が風にゆすられる音と共に、虫の音もわずかに届いてきた。
シエンはそのポーチの隅に腰掛けた人影をとらえる。
長い髪が床を這うのを見なくとも、それがキレスであるとすぐに分かった。南でも、彼は夜になるとよくこうして神殿の影を抜け出す。月明かりを浴びるように。
この日、宵の刻に、キレスは数年ぶりに、葬儀を執り行った。――葬儀は、月神としての彼の「仕事」である。彼自身がそれをどのように受け止めているか、それは、分からない。
シエンは、キレスから少し距離を置いて、ポーチの屋根を支える柱に静かに背をあずけた。キレスも、こちらに気づいているのだろうが、驚くふうでもなく、また顔を向けるでもなく、変わらずそこに座っている。無理に言葉をかける必要はない。シエンはいつもそうしていた。
風がひと吹き、ふた吹きして、水面が波紋を描き、また均されるのを、何とはなしに目に映していると、ふいにキレスが言葉を投げてきた。
「――頭、痛くてさ……」
唐突な言葉に、けれどシエンは驚かなかった。彼はいつもこんな調子なのだ。
「なんか、おかしいなとは思ってたんだけど。……昨晩」
昨晩。北で何かあったのだろうか。シエンが顔を向ける。そのことを確かめるように間をおいてから、キレスは独り言のようにも取れる話を続けた。
「地下から“力”が湧き出す直前に、俺、見たんだ」キレスはわずかに声を低くした。「あのラアってやつの両目が、闇の中で金色に輝くのを――」
どきりとした。もしかしたらと思っていた、あの禍々しい力の主。北との戦いで地下より放たれたあの、死の恐怖を知らしめるような力――キレスはそれを、確かにラアのものと捉えていた。
「見たって……、一体、どこで……?」
「そうなんだよ。おかしいだろ? ――あのとき俺、結界に弾かれて、たぶん川に落ちたんだよな。ぼっちゃんって。それでさ……、あの“力”にまた突き上げられて、川から放り出されたんだと思うんだよ。気がついたら、岸に上がってた」
シエンは眉を寄せた。キレスの話によれば、彼は太陽神の様子を川の中で見たことになる。けれど、あの力の中心は地下深く。水中に開いた窓でもあったというのだろうか……?
「あんなにはっきり“見えた”の、初めてかも――」
そう独りごちたキレスは、相変わらず池のほうに視線を落としていた。水面の月が風に揺らぐ。
キレスが“見えた”というのは、おそらく、普通の人が目で“見る”ものとは違う。彼は、その持つ月属の力のためか、普通には理解しがたい感覚を時にこうして訴える。出会ったころは、気のせいだとか、勘違いだとやり過ごしていた。けれど、それらが奇妙なほど事実を示していると知ってからは、この、突飛で脈絡もなにもない、説明のつかない彼の感覚を、無視してしまうわけにはいかなくなった。
「川の中から……意識して太陽神の居場所を探っていたのか?」
「違う」キレスは低く呟く。「あのときのこと、俺は一切覚えてない。意識飛んでたんだと思うんだ。それなのに……勝手に、入り込んできたんだ」
「勝手に入り込む……?」
言っている意味が分からなかった。自分の意思でなければ、一体どうやって――?
「もうひとつ目があるって感じ? いや、もうひとり俺がいて、ちょうどあの瞬間、その場に居たみたいな……」
「……まさか……」
やっと、キレスの言おうとしていることが見えてきた。
キレスはもちろんひとりだ。目がもうひとつ別にあったりするわけがない。ただ、彼のものであって、しかし今彼と分かたれているものがある。
「お前の、“記憶”、か……?」
シエンの言葉に、キレスはまた水面に目を移すと、ひざの上で手を組んだり解いたりしはじめた。
「分からないけど……そうじゃないかって」
キレスは地下から放出されたあの“力”を太陽神のものであったと証明したかったのではなかった。彼の失われた“記憶”、それが北にあるかもしれないということ。
シエンがキレスと出会ったのは、十年前。北の襲来を受け、シエンは姉と共に南へ逃れてきた。キレスもまた、戦火を逃れて南にやってきたらしい。だが、どこから来たのか、そのときは自分の名前すら、思い出せない状況だった。
キレスの記憶喪失は事故ではなく、人為的なものである可能性が高いということは、以前から言われていた。知属には、記憶や意識に関する力を誇る神が存在する。今も東に暮らす女神がそれであり、彼女はキレスの記憶について、彼女と同じ力が関わっている可能性が高いと判断した。――おそらく「二重の称号」のために、同じ力をもつ神が北にもあるのだろう。
けれど残念ながら、その女神にはキレスにかけられた記憶の封印を解くことはできなかった。いや、そのとき彼女は、ただの封印とは違うと言った。キレスの記憶は、“彼の元にはない”と……抜き取られたように、空なのだと。
記憶だけを、まるで物体のように取り出すようなことができるだろうか? 実際どのようになっているのかはわからないが、それが彼女の理解の範疇を超えていたことだけは、確かだった。
キレスが感じたものが、本当に彼の記憶なのかどうかは分からない。けれど彼は、そうだと信じているようだった。
「ひとりで奪い返そうなんて、思うなよ」
シエンは言うが、返事はなかった。
風がひと吹きし、水面が揺れる。キレスは突然立ち上がると、伸びをした。
「寒くなってきた」
それだけ言うと、顔をあわせることもせずに、廊下の奥に引っ込んでしまった。
自然にため息が漏れる。ふと目に映った池の水面に、月の影はない。西に傾き、建物の陰に姿を隠したのだろう。
……キレスと自分は同じように、過去の事実を求めている。
いや、おそらく彼は自分以上に、求めているのだろう。――過去の、自分自身を。
確かにあったものが、今は隠されて見えてこない。
それでも、過去は完全に消し去ることはできない。いつかは知ることになるはずだと、そう信じずにはいられなかった。
*
「お前にしては、遅い目覚めだな」
作品名:睡蓮の書 二、大地の章 作家名:文目ゆうき