睡蓮の書 二、大地の章
翌朝、もうひとりの友人ケオルが部屋を訪ねてきた。手に小箱とパピルスの巻物、背には箱のような大きな鞄を背負っている。
「南に戻るんだろ、一緒に行かないか」
そう言うケオルのうしろで、キレスが迷惑そうに顔をしかめているのが見える。
「シエン連れてくなら、お前ら二人で行けばいいだろ」
「ゲームに負けた方が言うこと聞くって約束だったろ。ちゃんと守れよな、これくらい朝飯前だろ?」
まだぼんやりしている頭に声が響く。シエンは額を押さえ、軽くため息をついた。
「……また盤上ゲームやってたのか」
「こいつ、深夜に人の部屋に押しかけてきたんだ。……お蔭で無駄に寝不足だ」
「いいじゃねえか、お前、起きてたんだろ!」
どうやらキレスはあの後、寝たわけではなかったらしい。苦笑を浮かべ、少し部屋を見回してからシエンは部屋を出る。
「けどケオル、いまお前が、中央を留守にしていいのか?」
そう言って、シエンが神殿の奥に目を馳せると、ケオルもそれを追う。自室に閉じこもったきりの、若き王の様子が気がかりだ。
「できることがあれば、するけどな……」同じように気にかけているのか、ケオルは声の調子を落として答える。「ホルアクティ神のことはカムアに任せるよ。あれも、見ないうちにしっかりしてきた。補佐の資質は十分だろう。――俺、他にもやることあるから。ほら、行くぞ」
「ったく、なんで俺が……」
「ああ、そうだキレス、どうせなら森の辺りに降ろしてくれ。キポルオに会いたいんだ」
ちゃっかり便乗する気なシエンの言葉に、それまでふてぶてしさをまんま顔に出していたキレスは一転、素直に聖杖を握る。
「じゃ、森に」
キレスら月属の使う移動の術は、他のどの神々が用いるものとも違う。結界を作り出すときと同じように対象を膜で包むだけで、あっという間に終わる術。移動させられる側の視点で見れば、ただ周りがふっと消え去り、別の環境が現れたように見える。
四属の神々はそれぞれの属する力の性質を用いて移動するため、負担がゼロではない。特に連れられる者は、属性が違えば余計に疲労を感じる。もうひとつの属性、知属の術に関して言えば、負担は少ないものの、陣を描くのに時間と手間がかかる。そんなわけで、シエンはそれほどではないが、ケオルはいつもこうして、キレスを利用しようとするのだった。
シエンの要求どおり、三人は一瞬で南の森に現れた。
頭のすぐ上から緑の葉が重なっているのに、葉擦れの響きはまるでずっと遠くから聞こえてくる。漏れる光も僅かで、深い深い緑をした森は、ほんとうの天はこんな色をしているのだと主張しているかのよう。
「呆れるほどよく茂ってるな、この森は」
仰いで、ケオルが感嘆の声を上げた。
会って間もない頃は、よくこの森を遊び場にしていたものだ。小さい頃大きく感じていたものは、成長すると小さく見えるというが、この森はそうではない。というのは、森を構成する木々が自分たちと同じように、もしかしたらそれよりずっとよく、生長しているためだ。
南の森を管理するのは、この神殿に住まう地属の第一級神、「樹神セベク」のキポルオだった。ずっとこの南の神殿で過ごしている彼は、シエンより五つ年上の先輩神で、また、従兄でもある。この森はまるで彼そのもので、彼が成神して力を得ると同時に木々の生長は著しくなった。また彼自身、この森で過ごすことが多かった。
ところが残念ながら、キポルオは今、この森には居ないらしい。シエンはもちろん、キレスもそのことに気づいたらしく、すっかり関心を失ったというように欠伸をした。
「……西にいこっかな」
「こらこら。代表になった奴が何を言ってるんだ。おとなしく神殿へ帰れ。今までみたいにあんまりふらふらするなよ」
ケオルが、キレスの右腕をつかみ、そこに結ばれた白い紐をつつくと、
「違うって、これは!」今まですっかり忘れていたらしい、キレスはあわててその紐を取り外しにかかった。「俺は代理なわけ。どうせ月属の長として中央に行くんなら、ついでに代表の印ももらって来いって、ジョセフィールのやつが……」
ジョセフィールとは、これまで南の代表をしていた神である。キレスにとって、同属の年上、しかし格下の神、ということになる。
「はあ? そんなことできるわけないだろ。仮にも神王の即位式にだぞ? 神殿の代表が代理を立てるなんて許されるもんか」
「なんだよ。こんな紐、外して、渡せばいいだけだろ」
「あのなキレス。それには、お前の名前を書き記してあるんだ。お前専用ってこと、分かるか? 第一、王から直々に渡されたろ。外せないと思うぞ」
「マジで? うお、なんだこれ、どういうことなんだよ!」
キレスは腕に巻かれた紐を外そうと必死だが、それはどうやら無理らしかった。
「……ジョセフィールが知らずに言ったとは思えないな」
シエンがぽつりとつぶやく。ケオルもうなずき、
「確かにな。お前それ、軽い振りで代表になれって意味だったんじゃないのか」
「……」
しばらく代表の印を凝視してから、キレスは標的を定めたように森の奥を睨み、そのままひとりでずんずんと進んでいってしまった。
「ジョセフィールも上手いこと乗せたな。さすがと言うか」
そう笑って、キレスに続くように歩き出すケオルに、シエンは苦笑して見せる。キレスが抗議したところで、ジョセフィールはいつものように朗らかに笑ってかわすのだろう。目に浮かぶようだ。
「そういえばシエン、」思い出したように、ケオルが振り向く。「キポルオと、これから人間界へ降りるつもりなのか?」
目をしばたいて、ああ、と答える。彼のことだ、人間界の状況についても聞き及んでいるのだろう。
「さすがのお前も、この状態を続けていられないってわけだ」
ケオルの言葉を捉え、シエンはその瞳に影を落とす。
(……そうだ、できる限り避けてきた。奴と……セトと争うことを)
セトが争いを望んでいることは知っている。だがだからこそ、それに乗るまいとしてきた。奴は争うことで、力を誇示しようとしているだけ。ただねじ伏せたい、それだけなのだ。応じていてはキリがないと――今まではそう考えていた。
だがいつまでもこのままではいられない。同程度の力であれば、被った害を打ち消すことができると考えていたが、人間界の状況は改悪されているといってもいい。事後対処では駄目だ。人間界を安定させるためには、進行する力の抑制だけでなく、回復のための力が必要となる。奴の力を超えねばならない。それには、自分ひとりでは足りない。キポルオの力が、必要だった。
「それじゃあ、着いてからゆっくりとはいかないな。これ、今のうちに渡しとく」
そう言って、ケオルは手にした巻物のひとつをひょいとこちらに投げて寄越し、もう一つ、長細い木箱を、こちらは丁寧に差し出した。
木箱の蓋を開け中を見ると、同じパピルスの巻物だが、ずっと年代の古そうな……茶色がかってところどころ朽ちかけたものが見えた。
「はじめに渡したほうは現代語訳で。写しはとったけど、原本はだいぶ朽ちているから、慎重に保管しておいたほうがいい」
「もう、できたのか」
感慨深そうに、新しい巻物を眺め、シエンが言った。
作品名:睡蓮の書 二、大地の章 作家名:文目ゆうき