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文目ゆうき
文目ゆうき
novelistID. 59247
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睡蓮の書 二、大地の章

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 少し、沈黙が続いた。シエンは目を閉じていた。目を合わせればホリカは、なぜこんな怪我をしたのか、なぜ争うのかと追及してくるだろう。……聞きたくなかった。そんなことを姉に話したところで、何にもならない。
 このままいけば、姉は諦めて部屋を出るだろうと考えていた。けれど、ホリカの次の言葉は、いつもの強気な感情を抑え、気遣うように、発せられていた。
「キポルオから、聞いたんでしょ。彼が、北神だって……」
 シエンがその翠緑を見開く。顔を向けずにはいられなかった。
「昨日南に行ったときに、教えてもらったのよ。あなたに話したって」
 驚きを隠せなかった。キポルオのことを、姉が知っていたなんて。これまで姉は、微塵もそれを感じさせることがなかった。自分だけが、知らなかったのだ。
「北神だと知って、ショックなのは分かるわ。……でも、それがなんだって言うの……? 彼は私たちの従兄よ。あなたは、彼からたくさんのことを教わったはず。私だって、何度も助けられたわ。それらは本当のこと。……それで、いいじゃない」
 ホリカは諭すように語りかける。
 シエンはその瞳で強く問うた。――父のことはどうか、と。父が北神であると知って、それでも何事もないように、明るく振舞えるのか。信じられる“何”を、知っているというのか。
 その様子に気付いたホリカは、ゆっくりと二度ほど瞬いて、柔らかな笑みを浮かべる。
「ねえ、シエン。彼の両親に、どんな不幸があったとしても、今の彼には関係のないこと。私たちは一度だって、彼と争ったことなんてないじゃない。……彼は今、間違いなくこちら側にいるわ。そうでしょう?」
 次第に、シエンの身をめぐっていた熱く重たいものが、冷まされてゆくのを感じた。
 まるで少し遠い存在のように、キポルオにかけられる哀れみの情。――姉は、知らないのだ。父が、北神であったという事実を。おそらく母の姉妹が、何かの間違いで北神の妻となったと、そのようにでも考えているのだろう。
 ……違う、そうではないのだ。間違いを犯したのは、自分たちの、両親なのだ――。
 頭がきりきりと痛む。シエンは拳を強く握っていた。知ってしまった事実――けれど、それを姉に伝えようとは思わない。苦しむのは、自分ひとりで十分だと……そう思った。
 ホリカは、いつにも増して口数の少ない弟を心配そうに見つめて、それから元気付けるように、明るい声で言う。
「ね。その傷、早く治しちゃいなさいな。キレスも怪我のこと気にしてたわよ。昨日来てくれたのに、あなたちっとも目を覚まさないんだから……。それに、替えの包帯にはケオルが回復の詞を書いてくれてるんですって。みんな心配してるんだから」
 そうして、釘をさすように、低い声ではっきりと加えた。
「もう二度と……危険なことは、しないでちょうだい」
 痛いほど注がれる真剣な眼差し。シエンはそれを直視できなかった。ただ重く沈んだ胸の奥で、どす黒いものがじわりと湧くのを感じたような気がする。そして……、
「姉さんには……関係ない」
 思わず、口にしていた。
 ホリカの表情が見る見る険しくなる。よせた眉を震わせ、大きく開いた瞳に激しい非難の色を差し、シエンを映している。
「よく、そんなことが言えるわね……」
 搾り出すように漏れた声は、怒りに震えていた。
「自分の身体だからって……自分だけの問題だと、そう思ってるんでしょう! ――冗談じゃないわ……私が一体どれだけ……どんな思いをしたか……。どうして、どうして分からないの……!? 私はあなたの姉なのよ、関係ないわけないじゃない……!」
 何度も首を振り、感情のままに叫ぶ声。それを浴びながら、シエンは必死で目を背けていた。姉と、その感情から。
「そんなになって、私を苦しめて、一体何を得られるの……? ――失ってばかりだわ! 得られるものなんて、何もないじゃないの!
 もう……いい加減にして!!」
 悲鳴のような声を残し、目を赤く腫らしたまま、ホリカは部屋から走り去る。
 静寂の中にシエンはひとり残される。けれど姉の声は、シエンの脳内で消えることなくこだましていた。
 ――姉の心を、傷つけた。そうなるだろうと知って、けれど、止まらなかった。
(心配してる……か)
 キレスやケオルは、自分が北神の子だと知れば、どう思うだろう。
 北神という存在。キポルオのときはまだ、どうにか受け入れることができた。――けれどそれが、自分自身に直結する問題であると知った今、自身のうちに無意識にあった偏見が浮き彫りになる。……公平でなかった。敵であるという認識が、無条件に嫌悪を生んでいた。敵はすべて悪であるという認識、そういう安易な考えを否定していたはずなのに。
 父は悪なのか。そして、自分はどうだ……?
 母は何故、敵であるはずの父を愛したのだろう。そして、父も……。
 死ぬ直前まで母が、変わらず信じ続けていた父を、自分は、同じように信じることができるだろうか。
 胸のうちに湧きあがる、言いようも無い不安。……シエンは渇望していた。自身について確かであると思える、なにかを。――父が母を愛し、そうして生まれた命を愛したという、証。あるはずのなかった交わりによって生まれた自分自身が、望まれていたのだという証、そして、立つこの場が、正統であるという、証を――。
 その正統性を確かにするために、彼には今、求められるものが一つだけ、あった。
 ケオルに訳を頼んでいた、あの古い書だ。
(南に、置いたままなんだな……)
 シエンは呼吸を整え、意識を集中して力を示す。するとその場に、人の姿をした高位の精霊が現れた。
「南の、俺の部屋に置いてある書を、ここへ運んでくれ」
 指示はイメージで伝えられ、精霊はすぐに実行した。
 精霊が戻るのを待つ間、シエンは花の置かれたテーブルを、ぼんやりと眺めていた。なんとなく、どこかで見たことがあるような気がした。小さなテーブル一つ、どこで見ていようがなんら問題はないはずだが……重い考えに向かうことを避けていたのだろうか。
 やがて精霊が、パピルスの束と、古い巻物を携えて戻った。
 軽く礼を伝えると、シエンはそれらを受け取るために半身を起こそうとした。傷を負った足に力が入らないように、ゆっくりと両肘をつき、身体を支えながら――。
 だが突然、左腕に痺れるような激痛が走った。
 足にばかり気をとられ、それ以前に傷を負っていた腕のことをすっかり忘れていた。同日のうちに受けた二つの傷は、程度の差はあれ、どちらも深く肉をえぐっていた。まだ回復は、完全ではなかったのだ。
 「……っ!」
 傷口が、開いてしまった。幸い、ぱっくりというほどの大きな開きではなかったが、それでも鮮血が流れ落ちてくる。
 右の手で傷口を押さえ、シエンはすぐに治癒の術を施した。シーツが血に染まるのを見れば、姉がなんと言うか……。とにかく、止血しなければ。
 注ぐ力に、流れ出ようとする血液が凝固してゆく。シエンはふうと一息ついてから、傍らに不安げに立ちつくしていた精霊に笑みかけ、心配ないと伝えた。
「そこに、置いてくれ」
 シエンは寝台の横の、花器の置かれたテーブルを指す。その指から鮮血がひとつぶ、滴り落ちた。