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文目ゆうき
文目ゆうき
novelistID. 59247
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睡蓮の書 二、大地の章

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「それがねホリカ、また素敵なのよお! ビーズのブレスレット! もう、信じられないの、見て! なんなのこの細かい仕事っぷりったら! あの人ほんとうに男なの!?」
 きゃあきゃあ言いながら、ファスラはホリカを引っ張って、ソークの腕を飾るそれを勝手に披露する。
「ほんとうに……私もこんなふうに作ってみたいな」
 ソークは半分照れたように、もう半分は本当に感心したように、ブレスレットを見つめた。女神たちにとって、装飾品は何より関心の高いもの。彼女たちも、自らビーズをつないで飾りを作ることがよくある。だからこそ、その繊細なデザインや色の組み合わせ、また細かい作業の様子が、尊敬の眼差しでとらえられていた。
「今度私も、もらうって約束したのよ! でも、もらってみたって、こんなふうにはできそうにないわ。……ああん、私もけっこう得意なつもりだったのにな。なんだか自信なくしちゃう」
 ファスラが大げさにため息をついた。その隣で、すっかり感心したようにブレスレットを見ていたホリカは、
「キレスは前から、こういうの得意だったわねえ……。――あら、元気だしなさいなファスラ! あなたには歌があるじゃない」
「ファスラさんの歌、聞きたいな!」
 木々のざわめき、強い木漏れ日、そして女神たちの喧騒。しばらくして、それらすべてを包み込むような歌声が響き渡る。
 いつもの、昼下がりだった。

      *

 目が覚めた。それは、水中からゆっくりと浮かび上がるような、自然な感覚だった。
 部屋は薄暗いので、じんわりと目が慣れていく。そうして感覚を取り戻すと、足に受けた傷の痛みに顔をしかめる。
(……生きてたのか)
 当たり前のことを確認した。そうしてばらばらに散らかった記憶を寄せ集めると、シエンは目を閉じる。生きているという認識は、安堵につながるには程遠かった。
 自らの思考に入り込む前に、すぐ近くに人の気配を感じた。もう一度目を開き、気配の主を探す。それはすぐ隣の部屋にいた。
 そのとき初めて、シエンは自分がどこにいるのかを考えた。天井近くに開いた格子窓から、木々をゆする風の音が届く。南のものとは違う、乾ききった葉擦りの音――懐かしい音。すぐに、西であることを知った。
 十年前の戦で、西もまた多くの犠牲とともに、神殿そのものも損傷を受けた。この部屋は、復旧後これまで誰も住んでいなかったのだろう。家具らしいものはほとんどなく、申し訳程度に置いてあった木製のテーブルは、どこから取り出してきたのだろうか、かなり古めかしい、かっちりとしたデザインで、あちこち小さな傷がついている。どこかに放置されていたのか、一応ほこりは払われているようだが、上塗りの樹脂はすっかり艶を失っていて、まっさらな部屋の壁とは不釣合いだった。
 そんなものに気をとられているうちに、気配の主が壁の向こうから姿を現す。
 女性としては典型的な、腰のあたりで切りそろえた豊かな黒髪。多くの女神が身につける、体のラインを隠さないワンピースは清楚な白色で、胸や腕を飾るビーズや黄金も、平均をはみ出さない程度に控えめに輝く。
 ふわりと、かすかな香り。草の青々とした、そうして陽の熱っぽさを含んだその中に、やさしい、ここちよい芳香が混じる。
 女神はこちらに歩み寄ろうとして、一度だけその、伏せがちな瞳をゆっくりと起こす。と、重なるまつげの向こうから、翠緑の瞳がこちらをとらえていることを知って、身を固めてしまった。
 シエンはこの女神をもちろん知っていた。戦の前からずっと、この西の神殿に住んでいる風属の下位女神、軟膏神フエ・メレフトだ。
 幼いころシエンは、あまり部屋を出て活発に動き回るような子供ではなかったから、知っているといっても、親しいわけではない。ただ、果樹園のある広い庭で、同じ年頃の子供たちが楽しそうに遊んでいるのを見るとき、彼女はいつもその輪から外れて、ぽつんと一人でいた。世話好きの姉が手を引いて輪に入れる様子を、何度か見た。確か自分より一つほど年が下だったのではないだろうか。
 ふと、フエが重ねた両手に包み込む花束から、テーブルの上の小さな器に生けた花々が、彼女によるものだと知る。観賞用の花とは違い、どこかにそっと咲いているような、花びらの形すら感じさせない小さな花。けして強く主張しない、薄い黄と紫を散らした一握りほどの束。そして、風に乗ってやっと届くような、ほのかなその芳香――どれもが彼女らしい。
 フエはあわてて黒い瞳を逸らして、何か言おうとしたのだろうか、重ねた手をもじもじと動かしたが、何も言葉にしないままテーブルに駆け寄り、器の花を差し替えるとそのまま……目を合わせることもなく、走り去るように部屋を出た。 
 開かれた扉からふうわと風が通ると、歌声が聞こえてきた。音楽の女神ファスラのものだろう。
 懐かしい故郷の、いつもの様子。けれどシエンは今、それらを意識から遠ざけ、過去に思いを馳せていた。
 幼いころ、母と姉と共に過ごしたこの神殿。
 父は、ここに足を踏み入れたことが、あっただろうか……?
 十年前の戦――その悲劇は、地下の避難路が北に破られたことで引き起こされた。
 どの神殿も結界によって外敵から守られていたが、内側から破られればひとたまりもない。逃げ惑う力なきものたちが犠牲となり、助けに向かうも避難路として作られた狭い通路で力を扱うことは、敵味方なく犠牲を広げる結果となった。
 これまで破られることのなかった地下が、なぜあの戦で敵の侵入を許したのか。その方法は、いまだに明らかになっていない。知属の扱う文字術を、地属の力で四面すべてに深く刻み付け、太陽神がその名を与えた空間は、外からの力に一切影響されない特別な空間である。破られることがあるとすれば、内側からしかないのではないか。
 今までも議論されてきただろうその問題を、今シエンが考えるのは、もちろん――父のことが、頭をよぎったからだ。
 父は、自分が生まれてすぐに亡くなったのだと、母から聞いていた。……けれどそれは本当なのだろうか。
 地下がはじめに破られたのは、西であったのではないか……? 
 これまで決して破られることのなかった地下の避難路を、まさか、父が――
「入るわよ、シエン」
 部屋の戸が再び開かれる。姉ホリカだった。
「やっと、目が覚めたのね。気分はどう、傷は痛むの?」
「……いや」
「そう、よかったわ。一昨日も昨日も、ヒスカが様子を見に来てくれたのだけど、このままおとなしくしていれば、じき治るのですって」
 シエンは顔を向けなかった。瞳に影を落としたまま、何もない壁ばかりを映している。
「シエン、あなたこれから、西で暮らしなさい」
 ちらりと、一度だけ瞳を向ける。ホリカはかまわず、続ける。
「まだすることがある、なんて言うつもりなんでしょう。お生憎さま、しばらく人間界への扉は閉じられるわ。王命よ」
 気だるそうな表情を浮かべ、シエンはゆっくりと息を吐き出す。すっかり道を塞がれてしまった。